蒼天のかけら  第九章  暗流の青史


蠢動


 サガノトスに夜がきた。
 夏になり日が長くなれど必ず夜がやってくる。
 今宵はまた格別に静かだ。犬が小屋に帰ったせいだろうか。
 連れてくる時もうるさかったが、帰らせる時もやかましかった。背中の怪我はどうしただとか、いったい何の任務だったのかとか。ひとしきり騒いで癒しを掛けていた。
 それにしても――。
「……あの馬鹿力が」
 骨にひびが入れられていた。次は手加減してやらぬと心に決め、酒を喉に流し込む。
 家の前に置かれていたボトルには、無色の強い酒が入っていた。
 ボトルに添えられていた輝尚石から、送り主は判明している。慰労のつもりだろう。卓の上で転がる輝尚石に向かい、このような任務は二度とお断りだと睨めつけておく。また一口だけ含み、濃い香りで喉を焼いてから、同封されていた袋を開ける。
 出てきたのは指令書。
 神鳥の透かしが入れられた紙の上。綴られた文字を流し読む。
 一通り読み終えてから、天空で輝く"二つ星"を見上げた。
「動き出したか……」
 星は答えず、今宵も煌きを誇るばかり。






 どこに向かっていると問う。
 女は微笑み、囁いた。
「いいからついていらっしゃいな。謹慎で暇をしているの知っているんだから」
「……中央でも一部しか知らぬはず」
「おしゃべりな人っているのよ。見回り部隊の不祥事なんてめずらしいから、誰だってしゃべりたくなるわ」
「貴様……!」
「自分達が仕出かしたんでしょう。いまさらなかったことにはできない」
 妖艶な女が微笑を隠し、強い声音で言う。放出された微量な真力が、意思の強さを示している。
「でもね」
 再び先導をはじめた女を、数歩の距離を空けて追う。
「気持ちはわかる。サガノトスは、他の里よりもずっと奇妙な形をしている。慧師と数少ない正師だけに権力が集中して、他の真導士は下っ端扱い。貴方は内勤だから知らないと思うけどね。外勤の高士って、任務に就く前に必ず禁術を受けて、力自体を制限されるの。魔獣討伐の任務だってあるのに、勘弁してもらいたいわ」
「何のために……」
「さあ? 慧師に聞いて」

 聞いてはみたが理由は知っている。
 里抜け防止だ。外勤の高士がもっとも里抜けしやすい。里を抜け、里以外の勢力に加担されてはまずい。
 そうやって真導士の力を管理しているのだ。
「噂なんだけどね。慧師は王族と近しい関係にあるらしいわ。だからこの構造も、もしかしたら王国の意思なのかもって思うのよ」
「何……?」
「真導士の力を削いで、王国の復権を狙っているんじゃないかしら。大戦の時、最後まで伝説の正鵠に逆らったのはドルトラントよ。頑なに覇権を狙っていた王国にとって。真導士も、真導士の里も邪魔でしょうね」
「ドルトラント国王が、真導士の里を潰そうとしていると言うか」
 荒唐無稽な話だ。やはり、この女を信用することはできぬ。
「違うわ。国王陛下は賢君中の賢君。学のない私でも知っている。私が心配しているのは、国王の次代」
「王太子も優れたる方と聞く」
「ええ、でも国王ほど影響力はお持ちでない。国王の力で抑えていた王宮の魔獣達を、お若い王太子が御しきれるのかしら」
 国王の第一子は若くして亡くなっている。
 王太子はその第一王子の子。国王陛下にとって孫にあたるお方。……まさか、この女。

「慧師が王宮の魔獣達と結託していると……?」
 女が振り向き、己の指をその唇に当てた。
「どこで誰が聞いているかわからない。そうでしょう」
「あ、ああ……」
 森の中にあっても、女は周囲を警戒し、気配を尖らせた。
「貴方は敏いけれど、ちょっと粗忽よ。里の中の方が、外より危険かもしれないと自覚してちょうだい」
 この話しぶりで、女が己を呼んだ理由が読めた。
 慧師は王族と近しい。即ち王族ではないということ。王族としての力を持ちたいと望み、爛れた貴族と結託する。……ふん、ありそうな話ではないか。
 女は慧師と反する側にいる。慧師の偏りと、王都の貴族達を警戒している。里とドルトラントの正常な関係を望んでいるのだろう。真導士の里が本来持つべき姿を、取り戻そうとしている。
「一人で成そうとは思っておらぬだろう。……どこへ向かおうとしている。仲間のところか」
「あら、わかったの」
 やっぱり声を掛けてよかったわ。
 そう囁いて、女は妖艶な笑みを浮かべた。
「貴方の話をしたら、ぜひ仲間にって話になったの。見回り部隊に配される実力者なら大歓迎よ。ところで、名前をまだ教えていなかったわね。私はフィオラよ」
 先導していた女が、夜の闇に溶けた。
 真術で覆われているようだが、ここが住家だろう。

「連れて来たわよ」
 渡って出た場所は、石造りの一間。
 一間にはすでに二人の人影。緑の髪の優男は初見。しかしもう一人はサロンで見かけた。フィオラと同席していた者だ。
「ようこそ。君を歓迎するよ」
 緑の髪の男が言う。視線で問えばフィオラが口を開く。
「彼はジーノ。それから彼はセルゲイ。二人とも私の相棒よ」
「……ドミニクだ」
「ドミニクか。今日から我々は同志だ。外は警戒すべきだが、ここは安全。気を休めてもらいたい」
「貴殿が首領か」
 問うた相手――ジーノは頭を振った。
「いいや、まだ到着していない。じきにこられる。しばらく待ってもらいたい」
 ジーノは答え、黒の天鶩絨で覆われた場所に視線を投げた。
「姿を見せぬ首領を信用せよと」
「彼にも事情がある」
 彼……男か。
「こられたようですよ」
 セルゲイと呼ばれた男が、向きを正す。
 ジーノとフィオラもそれに倣い、訪れを待つ。

 転送の気配がした。
「……おお」
 知らず、感嘆が漏れた。己が発した声がにわかに信じがたい。
 場に満ちる、壮大な力。あの忌まわしい"鼠狩り"よりも強い真力が、空間を越え渡ってきた。

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