蒼天のかけら  第九章  暗流の青史


赤と黒


 夕食を終えた。
 皿を片付けてから、二人とも何となく長椅子に落ち着いた。
 ひさしぶりの家と、ひさしぶりの夕食と、ひさしぶりの相棒。そして、膝にはひさしぶりのジュジュがいる。
 離れているのが嫌でローグの隣に座り、左手を捕縛しているところである。
「めずらしい」
 低く笑う声が、恋しさを思い出させる。
「猫で結構です」
「ついに認めたな。素直なのはいいことだ」
 くつくつと響く声。
 一緒に満ちていく熱い海の気配を、目を閉じて深く感じた。
 互いの気配に触れ、夜を過ごす。
 話したいことは山ほど。でも、今夜はどうしてもこのままでいたい。

 過去に触れた。やさしくてあたたかくて悲しい過去。黒塗りの下に隠されていた悲劇。
 骨ばった左手をぎゅっと握る。
「どうした」
 ふるふると首を振る。
 話さなければいけない。過去のサガノトスで起こった出来事は、この年にも通じている。
 強い力を取り戻した黒い瞳を見る。誰よりも真力が高いローグは、里から下りることができない。
 大切な人を残して、どうして自分だけが逃げられよう。
 それに友人達がいる。彼らの中にも、里から出られないほどの力を有している者がいる。彼らが残るならその相棒達も残る。きっとそうする。
「ローグ、あの」
 言葉を投げかけ。しかし宙で失速し、落ちて消える。
 何を伝えればいいのか?
 青銀の真導士が守ってきた大切な場所を、土足で踏み荒らした自分。自分はさらに罪を重ねようというのか。首飾りに隠してきた彼女との日々を、無為に話していいものなのか。
「上手く言葉が……」
「いい。話したくなったら話してくれ」
 察してくれたのか。言葉を引き取って仕舞ってくれた恋人に、ゆっくりもたれかかる。

「なあ、サキ。一つ謝らなければならんことが」
 しばらくして今度はローグが話し出し、言葉尻を切った。
 ちょっと会わない間に、お互い色々とあったようだ。
「何でしょう」
「その、これなのだが。元に戻せなかった」
 ローグはもごもごと言い、形のいい眉毛を下げてポケットから組み紐を出してきた。千切れてしまった組み紐。直そうとしたのだろう、真新しい紐がちょろりと垂らされている。
「ティピアにも教わったんだ。だがな、どうにも結べない。紐が細くて……」
 情けない眉になったローグは、自分の指先を見て肩を落とした。
 つい真似て同じ仕草をする。
 並べた互いの手。薄く焼けたローグの手と、自分の手を比較してみる。
「ローグ、指が大きいですね」
「男はこんなものだ。何度も試してはみたんだが……」
 反省しきりといった様子である。
 そうだったのか、言ってくれればすぐに直したのに。負けず嫌いの彼は言い出した手前、後に引けなくなってしまったらしい。
「本当にすまない」
 謝罪を重ねる恋人に、少しばかりいたずら心が沸いた。肩を下げているローグを呼び、こちらを見るよう促す。そのまま従ったローグの額の前に右手を置き、えいとばかりにいたずらを実行した。
 ぺちり。
 締まらない音を出した右手。……ううむ残念。失敗してしまった。
 弾かれた額をさすりさすり、ローグが目を丸くしている。
「謝る必要がない時に謝ったらデコピン、でしたよね?」
 おっしゃる通り。
 そう言って喉で笑いを潰しているローグに、笑顔を返した。

 大切な時間。
 いつもと同じような夜。この夜がある日唐突に失われたら、自分はどうするのだろう。
 呼びかけても返事がもらえなくなったら。前を見て生きていけるのか。
 腕を伸ばして抱きついた。少しだけ動揺した恋人は、どうした急にと言い、そっと背中を抱いてくれた。

 守りたい。
 唯一の彼を。
 里で出会った、友人達を。
 "第三の地 サガノトス"は、すでに自分にとって失えない場所。
 だってここは、わたしの――。

「ローグ」
「何だ」
「家っていいですね」
 伝えれば、胸がじわりとあたたかくなった。
「そうだな」
 ただいまと言って。ただいまと言われて。
 そんな毎日が続けられる場所。故郷を失った自分に、女神から与えられた新しい"故郷"。

 守りたい。

 密やかに生まれた新たな夢。芽吹いたばかりの小さな命を、いまは大切に育てておこう。
 いつか。そう遠くない未来に、蕾をつけるだろうから。






 朝日が窓掛けの隙間から侵入してきた。音を立てぬよう、そっと光の侵入口を塞ぐ。
 すうすうと寝息を立てているサキの上に、白の獣。
 定位置に陣取っているジュジュは、獣らしく丸まった姿勢でこちらを窺ってきた。
「……行ってくる。サキを頼むぞ」
(君に言われたくないよ)
 つんとした声で応じ、尻尾を丸めて寝たふりを再開する。
 蜜色の恋人は、まだ夢の中。
 しばらく起きることはない。自覚が薄いようだが、だいぶ消耗している。この数日の間で何かあったのだろう。
 どうしたと問い詰めたい気持ちはあった。
 それでも時をおいたのは、サキの気配が弱まっていたからだ。

 白のローブを羽織り、家を後にする。
 朝の内がいい。
 自分にとってはめずらしいこと。今日は強い予感がしていた。家から真っ直ぐに伸びた道を歩き、左方向へ曲がる。学舎へと続く道の途中で、長い影を見つけた。
「いい天気だな」
「ああ」
 示し合わせはなかった。
 当たり前のように合流してきたヤクスと歩みを揃え、朝の道を進んでいく。
「ありゃ、どうしたって聞かないのか」
 合流しておいて、何をいまさら。
 こいつの性格はいまだ謎のまま。
「こうなる気がした」
「ふーん。まあオレもそんなところだ」
 道に視線を落としたヤクスが言う。
 向かった中央棟の前にも、また一つ白い人影があった。
 キクリ正師だ。挨拶もそこそこに正師は歩き出す。道案内をしてくれるらしい。

 中央棟の二階。
 サガノトスの長がいる執務室から見て、対角に位置している場所。真術が掛けられている扉は、白く輝いて侵入を阻んでいる。
「ローグレスト、真力を」
 言われた通りに真眼を開き、真力を放出する。
 額から放たれた真力が、扉の前で渦を巻き、凝縮されていく。人の頭ほどの大きさになった時、音もなく弾けて扉に吸収された。
「開きなさい」
 重厚な扉を、両手で慎重に開く。開かれた部屋にはいくつもの書棚が設置されている。
「お前が望んだ件、慧師より許可が下りた」
 残されていた最後の望みに対する、シュタイン慧師の答えがこれだ。
「利用するにあたって条件が設けられている。書物の持ち出し、および書きつけの持ち帰りは厳禁。情報を整理したければ、そこにある文机で管理するがいい。また、ここで得た知識は限られた者にのみ話すこと。話す相手は己が決めること」
 部屋に入る。
 入り口には三段だけ段差が設けられている。下った場所で、最後の条件を耳にした。
「すべては己で判断を下すこと。――以上だ」
 それだけ言って、正師は部屋を後にした。残されたのは自分とヤクスだけ。

「えらい量だ。読み尽くすのに何年かかるんだろうなー」
「全部を読むのは無理だ。必要な箇所だけ探そう」
 望みが通ったら、真っ先に探そうと思っていた本を目指す。
「本当にあるかな」
「絶対にある。あれは歴史書だ。黒塗りを施すのは複写と決まっている。必ず原本は保管されているさ」
 書棚を左上から順に見て回る。
 そうやって問題の書物を探している時、自分の目がそれを捉えた。
 十二年前の導士名簿だ。
 手にするのを躊躇う理由はどこにもなかった。棚から引き出し、中身を検分する。
 上から覗き込んできたヤクスは、へえと声を出した。
「名簿ってこんな風になっているのか……。初めて見た」
「どの年も記載方法は統一されている。階級が違っても同じだな。高士の名簿にもなると分厚い。しかし、導士だとこの程度になる。記載されている順番は、森を抜けてきた順。番は横並びに記載される。名前、男女、系統と特徴。特徴は髪と瞳の色のみ。事件、事故、任務中の死者は"死亡"。老衰や病死は"除籍"。例外があるとすれば……これだ」
 指差した場所に記載されているのは、知らぬ者などいない里の有名人。
「シュタイン・クロノス……。慧師って貴族かあ」
「ヤクス、そこではない。よく見てみろ。慧師だけ相棒が記載されていない」
「……あ、ほんとだ」
「他の名簿でも、慧師の相棒だけ名が記載されていない。慧師の代替わりの際、全部の記録を書き換えているようだ。これも慧師だけ一頁割いて使っているだろう」
「何でまた?」
「恐らく"共鳴"させないため。いかに慧師でも相棒の影響を受けるのだろう。だから慧師の同期の名簿は、前後の年よりも新しい紙になっている」
「書き換えるの大変だろうなー」
 あっけらかんとした感想を出したヤクス。頼りになるんだか、ならないんだか……だな。
「十二年前も導士が多かったのか」
「当たり年って奴だろう」
「あれ、また慧師の名前が出てきたぞ?」
「こういう構成なんだ。前半は森を抜けた時の名簿。後半は一年の終わりに在籍している者の名簿。番の組み換えに対応しているんだろう。追放される輩が後を絶たんというわけだ」
「まあ、リーガみたいな奴ってどの年にもいるだろうからな」
「その名は二度と出すな」
 大げさに口を両手で押さえたヤクスは、やらかしたという顔をした。
 まったく危なっかしい。サキの前では言ってくれるなよと、不安を覚えながら頁をめくる。
 そして、その事実に思考が止まる。
「おい、これって……?」
 ヤクスの問いかけを放り捨て、次の頁へ。そしてまた次の頁へと進む。
「……嘘だろう、こんな」
 記されているのは赤。進めど戻れど、赤が一面に並んでいる。
「赤字で斜線が死んだ奴だよな。じゃあ、斜線がないのは」
「行方不明者だ」

 何だこれは。

 手に入れた情報がにわかに信じ難い。前半へと戻り、人数を確かめる。
 この年は豊作中の豊作。五十九の雛の名が記載されている。後半の名簿に戻り、名を数える。数はぴったり五十九。誰一人欠けていない。
「何なんだよ、これ……。皆、死んでる」
「生きている者を数えた方がずっと早い」
 めくった最後の頁に、もう一人だけ知った名を見つける。
「四人だけ……か」
 黒字で記載されている名は四つ。あとはすべて赤字。回り道をして手にした十二年前のそれは、死者の名簿。
 そう呼ぶにふさわしい代物だ。
 十二年前のサガノトスで何があったのか。ついに紐解いた歴史から闇の一端が顔を見せた。深く広がる闇の入り口で、もう一つの事実を見つける。
 人差し指でなぞった場所には、あの男と相棒の情報が記載されている。

 髪は金。
 瞳は琥珀。
 天水の……女。

 斜線で潰されずにいる相棒の特徴を、表現できない気持ちのまま読み砕く。
 やや新しい紙に、赤のインクで記されている娘の名は――サラ。
 黒と赤に分けられている番の名が、不安を駆り立てる。
 真導士の勘が何かを告げた。
 "何か"の正体を掴もうとしてみれど、空を虚しく掻くばかり。
 巡ってきた"吉凶の年"に生まれた自分達。まだ黒く記されている名が、赤く染まらぬようにと強く願う。いかに闇が深かろうとも、願わずにはいられなかった。



 ついに暗流の青史が紐解かれた。
 不完全なる大地の上に輝く二つの星。星の輝きが頂点に達するその日に、白き彼らの運命が定められる。
 運命の日を彩るのは赤か、黒か。
 いまはまだ誰も知らない。

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