蒼天のかけら  第十章  晦冥の牙


夜半過ぎ


 風が一段と強くなってきた。

 しばらく前に、雨は上がっていた。今夜は荒れるほどでもなさそうだ。
 夜は鼠が動きやすい。いつでも出られるよう、ローブは椅子の背にかけておいている。役に立たねばそれで構わない。
(……困りものだ)
 犬の躾は存外に手がかかる。コンラートが言うように、首輪だけでは足りなかったようだ。
 長く。止まっているのではとも思えた時が、ここにきて急流の如く進み出した。冬を迎える前に下りよと言っても、決して聞くまい。なれば、知恵と知識とを早急に仕込む必要がある。
(……だが)
 卓に転がっていた一つの水晶をランプに掲げる。
(まだ、知らなくていい)
 知らなくていい。あいつにはまだ早い。いま少しばかり待ってやろう。
 透かし見た水晶には、裏側のランプの光が踊っていた。炎の陰影を眺めていると、光の中に影が視えてくる。
 届いたばかりの連絡。
 記載されていた内容が事実なれば、足を伸ばしての調査が必要となる。急く気持ちはある。しかし、必要な足が揃わぬとも連絡がきた。間の悪いことだ。
 そうは思えど、以前のような苛立ちを感じずにいる。
(流れ、か)
 闇夜よりも暗い道へと踏み込んだ時。予言のように告げられたあの言葉。

 ――必ず流れが来る。

 憎む相手も。ぶつけるべき感情も。すべてが瓦礫の向こうに埋もれていた。
 手探りすら満足にさせてもらえぬ日々にあって、先を見据えていたのは奴だけだった。

 目的は果たせてなかろう。
 不完全であったはずだ。完全であったなら、この地で息をしている者などおらぬ。
 なれば、いつか舞い戻ってくる。
 此度以上の力を携え、必ずやサガノトスに戻ってくるであろう。

(その時は――)

 瞑目して、高ぶり出した気力を抑え込む。
 時は、確実に近づいてきている。






「ガルヤの巫女は、領主よりも力があると聞いたな」
 インクの匂いが残ったままの右手が、閉じた瞼をなぞった。
 眠くて。
 あたたかくて、もう目を閉じたままでいたい。
「二人はガルヤの出身だったか。聞きそびれていた」
「行ったことは」
 喉が低く震えた。声が眠そうだと気配が言っている。
「まだない。兄貴と行商に出た時、近くまでは行った。大雨が降っていて川を越えられなかったんだ」
 周囲を穏やかな海が包んでいる。
 今回の話は、一番上のお兄さんだ。きっとそう。
「ガルヤは大きな町だ。山を背負って左右を川に囲まれている。ガルヤの物縛りは有名だな。町の女は嫁いだ先でも物に縛られる。だから近場を巡る行商人は、必ずガルヤの品を仕入れている。手堅く売れてくれるから助かる」
 口調がゆったりとしていて眠気が増す。
 興味深い話なのに、いつまでもつだろう。
「一緒に、下りてもいいですよね」
「ああ、手伝ってやれ。物縛りは頭痛の種らしいからな」
「そんなに?」
「どこの町にも、頭を抱えたガルヤの男がいると評判だ。まったくクルトも水臭い。言ってくれれば仕入れておいたのに」
 へえと言ったら、添え髪がはらはらと頬に流れてきた。
「ティピアは、連れていけないのだそうです」
「恐らく血続きの障りだ。二人の瞳の色は近いから」
「どういう意味でしょう」
 口を動かすたび、髪がゆれる。ささやかな刺激を熱い指がはらった。
 とても、くすぐったい。
「親子でも血が濃い方に色が寄る。髪の色、瞳の色、肌の色。そこからきてるのだと思う。色が近いと血が近いとされるんだろうな。付き添いに女を連れていってもいい。むしろ連れて行った方がいい……だったか。ただ、血縁者は駄目だったはず」
 人が持つ色彩は、両親のどちらかに似ることが大半。混ざり合うことはめずらしい。祖父、祖母に似ることもあると聞いたけれど、本当に稀だとか。

(髪色は難しい。瞳の色ならば――)
 金の髪より、琥珀の瞳の方が少ない。どうにか親を探してやれないか。
 奥にあった記憶が、ふわりと浮かんできた。

「村長は、瞳の色で親を探そうとしてくれたんです。近くの村にいないか訪ねてもらって。……でも、いなかったって聞きました」
 髪を整えていた手が、頭を包むように撫ではじめた。
 やさしくて、目が熱くなる。
「ガルヤは女神の加護を受ける町。女神の歓心を得ているためか邪神を引きつける。祭事が多いのは邪神を退けるためとも言われている。やっと腑に落ちた。クルトがユーリに構うわけだ。親に頼まれているそうだから」
「関係があるのですか」
 幼馴染の番は、他のどの番よりも絆が深い。
 真力の馴染み方も一番だとキクリ正師が言っていた。ちょっとだけ、悔しいと思っている。
「物縛りは女の問題なんだ。男は魔除け扱いらしい。男を通すことで魔を避ける。男が近くにいるだけで魔が逃げる」
 クルトは、しきたりを忠実に守っているのだろう。
 意外と固いところがある。
「ガルヤの魔は男嫌いなのですか」
 ローグが楽しそうにくつくつと笑う。
「単純に女好きという線もある」
 からかうように言って、熱い指が唇を撫でていった。
 心臓の中で、血が沸き立ったようだ。胸が圧迫されて、急に息苦しくなる。
「もう、ジュジュに噛まれますよ」
「……いや、今回は引っかくつもりらしい」
 閉じていた瞼をさっと上げて、お腹の上にいるあの子を見やる。
 小さく丸くなっていたはずのジュジュは、小さな爪をにょきりと出しながらローグを睨んでいた。
「ああ、こら。いけません」
 眠気が充満した身体に鞭打ち、腕を伸ばして白い毛玉を抱え込む。
 その隙にローグが椅子から立ち上がった。本を机に戻した彼は、窓辺まで歩いていく。蚊遣火をもう一本出すつもりだろう。
 爪を出したままのジュジュを撫でつけていると、窓辺にある彼の気配が大きく膨れた。
「ローグ?」
 蚊遣火の用意をしていた彼は、あわただしく窓を閉め、窓掛けを開けた。
「……霧だ」

 性懲りもないと、忌々しげにつぶやいた彼の向こうで、夜が白く濁されていく。

「風が強くて出所がわからんな」
「わざと強い日を選んでいるのでは」
「だろう。見回りの高士は夜間も活動している。出所がわかればいいが……、これでは難しい」
 黒髪の相棒は、険しい声で言ってからこちらを振り向いた。
「心配はいらない。正師が結界を強めてくれている。種は割れているんだ、上層だって対策をするだろう。前のように荒れることもないさ」
 今日が無事に終わると思っていたのに……。嫌な形で水を差されてしまった。
 かといって、即座に動くべき危機とも言えず。冴えてしまった頭と共に、夜の続きへと戻ることにした。

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