蒼天のかけら 第十章 晦冥の牙
彼女の嘆き
――間一髪だった。 被害は、右の革靴が焦がされただけ。 ひりひりとした感じもあるが、浅い。どうにか結界の中に潜り込めた。打ち鳴らされている心臓に手をやり、撫でて宥める。 高く鳴っている予感の合間から、すすり泣きが聞こえてきた。 三つ編みを震わせ、癒しを展開しているユーリの頬に大粒の涙が散っている。彼女の手は血まみれの左腕を押さえていた。 そうか。 あれだけの状況で首だけはかばっていたのだ。よく……間に合ってくれた。 「だからっ……。嫌だって言ってるのに……」 傷を治しきったユーリは、クルトの胸元に縋りついた。 彼から流れた血が白楼岩の合わせ目を通って、ゆっくりと流れている。その光景に胸が詰まった。 二人の絆はこんなにも強い。 身体を起こしたユーリの、細い後姿が目に染みる。 クルトの血を拭おうとした彼女が、喉笛を鳴らした。その弱々しい音に呼ばれ、倒れたままのクルトを見る。 苦しげな表情。 大量の汗をかいている赤毛の友人。彼の様子がどうもおかしい。よくよく見れば、"魔獣"に噛みつかれた左腕が変色している。 慌てた様子で再びユーリが癒しを放つ。 願いを含んだ真術は、自分が負った足先の火傷を癒した。側にいるだけの自分をも癒したというのに、左腕の変色は徐々に範囲を広げ、だらりと垂らされた指先にまで到達した。 「毒だ……」 青ざめた横顔を見つめる。 「どうしよう、サキちゃん。これきっと毒だよ!」 悲観と真力が放たれる。 ユーリの真力が正面から吹きかかり、すっと意識が遠のいた。 男性が目の前で頭を下げている。 隣に立つ女性も、涙ながらに重ねて願った。この人達が誰なのか一目でわかった。涙を流す女性が、ユーリにそっくりだったから。 (わかってるよ。おじさん、おばさん) 照れ臭そうにクルトが答えた。赤毛を力なく掻いているのは普段どおり。真新しい額飾りを夕日が染めている。 (……こら、ちゃんと答えないか!」 怒り出したのは別の男性。この人はクルトとよく似ている。その横に立っている柔らかそうな雰囲気の女性が、心配そうに彼を見守っている。 怒鳴られて肩を竦めたクルトが、真面目な顔つきになって背を伸ばした。 (身命を賭して) 盾となることを誓約します――。 「クルト、嫌だよう……!!」 ゆさぶり、意識を戻そうと彼を呼んでいるユーリから、多量の真力があふれている。 六匹の"魔獣"は、彼女に興味を示し続けている。 獲物を前に、舌なめずりしたものもいた。 夢に飛んでいる場合ではない。結界の輝尚石に大きく入ったひびが、未来を予告している。 もう持ちこたえることは不可能だ。 完全に度を失ったユーリは、ひたすらに縋っている。唯一の救いが彼であるかのように。 決意を固めた。 時間がない。クルトの容態は刻一刻と悪化している。もたもたしていたら命を落とすだろう。 だからもう、これしかない。 立ち上がり、気力を調整する。できるだろうと思っていた。そして、それは滑らかに叶った。 自分の意識を真眼から、ゆっくりと背中へ移す。 沸かした湯をカップに移すように、とても簡単だった。 視界が青く染まる。 どくどくと脈打ち煩かった心臓が、徐々に静まっていく。 一呼吸の後。白い光の上に、青を流し込んだ。懐かしい色が自分を包み、そして通路をも包んでいった。 懐かしき世界が、そこにある。 背中が解放を望んでいる。 どうしようか。どちらでもいいのだけれど 火炎がきた せっかくきれいに染めたのに、色が変わってしまう 火炎を吐いていた子を確かめる かわいそう。こんなに苦しがっている おいでと呼んだのに、大きく吠えただけ もう一度呼んでみたのに、ずるずると後ろに下がっていく。尻尾が丸まって震えてる ああ、かわいそうに 女の子の声がした。泣いてる声が かわいそうな子を、青で包んであげる 怖がらないで? だいじょうぶ。だいじょうぶだから。ちゃんと帰してあげるからね 「さあ、お行き」 空が近づいてきた。ここまで近くならだいじょうぶ。迷わずに行けるよ 風に乗せて運んであげる ふんわり乗って気持ちよさそう。 ……ああ、よかった。ちゃんと拾ってあげられた。あの子の置いていったものが、ころりと落ちる。きみも早く還れるといいね ほかの子たちも、早く運んであげよう だってこんなに苦しそう また、女の子の声がした 誰よりも悲しそうで、どこにいるか探す 泣いている。たくさん泣いていて、なんてかわいそう 女の子がどうしたのと言っている。 どうしたの? あなたこそどうしてそんなに泣いているの? たくさん泣いている女の子。後ろに男の子がいた 苦しそう すごく、苦しそう この子達の中で一番苦しそう。一番かわいそうな子。さっきの子が、男の子の中に残ってるんだ だからこんなに苦しそうなんだ 早く、帰してあげないと 一緒に行けば、さみしくないからね おいでと呼んであげる でも、来ない どうしてかな? 怖くないのに。向こうに行けば苦しくないのに 連れていってあげなきゃ。他の子も一緒に 早く彼方に帰してあげないと 女の子が泣いている ずっと、ずっと泣いている――