蒼天のかけら 第十一章 神籬の遺跡
消したい願い
扉のところで、あれと首を傾げた。
ディアの身支度を一通り整え。額に当てていた布を湿らせ。ぬるくなった水を取り替えねばと居間にきて……。
形容しがたい気配を全身で感じ取った。
イクサがいない。そしてローグもいない。
いるのはヤクスだけ。長身の友人は食卓に陣取って薬草を広げ、張り詰めた気配を振りまいている。
「ヤクスさん。二人はどうしましたか……?」
「んー。食事を取りに行ったよ」
「二人で、ですか」
聞けば、にこにことしたまま薬草を引いているヤクスから「もちろんだよ」という気配がまかれた。
驚きの返答を受け、うっかり立ち尽くす。
あの二人が連れ立って出かけたなんて……自分がいない間に何があったのだろう。
「サキちゃん。水を変えるの」
のんびりとした声が、やるべきことを思い出させる。
「はい。炊事場をお借りしようかと」
「いいよ。イクサも絶対にいいって言うから、水を持っていってあげて。ごめんねー、無理いって手伝わせて。水を変えたら少し休もうか」
薬研の調子に合わせながらのやや強引なお言葉をいただく。自分が小間使いをしている間に、異変があったことだけは確かだろう。気になって仕方ないけれど、いまは聞かないことにした。
触らぬ医者に何とやら……である。
喉元のむかつきで目を覚ます。
気がついたら家に戻っていた。
実習中だった記憶がある。貧血を起こしたんだ。……ああ、またやってしまった。
きっと、彼が心配している。
喉に違和感がある。吐き気がひどい。水で押し流してしまいたい。起き上がるのも億劫で、右手だけ動かしてグラスを探す。
目的のものはいつもより遠い場所に置かれていた。
違和感がひどくなっている。
すぐにでも水が欲しい。
口の端から入りきらなかった水が流れる。冷たい道が顎を通って喉に流れ、服につき、そこで嫌な感触を生んだ。
(気持ち悪い)
水を飲みきったのに、よくなるどころか吐き気が激しくなった。
歯を食いしばって耐える。
横になり姿勢を変え、一番楽な場所を探してみる。無駄な努力とわかっていても動きたくなかった。寝床から出たくなかった。ずっと眠っていたかった。
目覚めたくなんかなかったのに、どうして起きたんだろう。
嫌なものを押し出そうと息を吐き出す。束の間、楽になったように思えたから何度も何度も繰り返す。
吸って、吐いて。吸って、吐く。
……駄目。やっぱり苦しい。
足の先は冷たいのに汗ばんでいて、動かせば動かすほど掛け布と絡まる。不快感が増してきてどうしようもなかった。
もう、我慢の限界だ。
掛け布を蹴り上げて、ずりずりと這いながら寝床の端まで辿りつき、床に足をつけた。
世界が回る。
真っ直ぐ見ているはずなのに、景色が左側に流れていくかのようだ。
視界の中心だけがはっきりと見えていて、外側が滲んでいる。ぐちゃぐちゃの世界が視界で広がっていた。
かき回されたような世界から、ぽつぽつと色が落ちて消える。はじめは赤、次に茶色、青……。最後に緑が落ちて、記憶も落ちた。
倒れた拍子に腕を脇机にぶつけた。派手な音が右耳だけに反響する。
(気持ち、悪い)
喉がぎゅっと締まる。つられて頬も強張った。
居間で足音が動いた。
(嫌だ)
来ないで欲しい。
こんな姿、見られたくないのに。
少しだけ開いていた扉から木の軋む音がした。願いも虚しく扉が開かれる。そこから顔を出してきたのは、金の人影。
人影の正体を確かめて、我が目を疑った。
「ディア、どうしました?」
彼だと思った。あのきれいな金の色が目に飛び込んでくると思っていた。
(何で)
何で、貴女がいるの。
彼とは違う。それでも同じ金の髪。
ふわふわとゆれている添え髪から、視線をはがせなくなる。
「急に立ち上がってはいけません。……どこか打ちましたか」
何で。
何で家にいるの。ここは彼とわたしの家。誰にも邪魔されない、わたし達の家。
他にはどこにもないのに。
この場所以外、どこにもいられないのに。
「起き上がれませんか」
何で。
「無理して動くからです。いまは寝ていないと」
どうして。
「ディア?」
どうしてなの――!?
近づいてきた手を、力いっぱい叩いて跳ね除ける。
大きく広がった目。いかにも傷ついたという顔をした憎たらしい娘。
「……出て行ってよ。いますぐに、ここから出て行って!」
「ディ……」
「何で貴女がここにいるのよっ。ここはわたしの家なのに!」
わたし達の家なのに。わたし達だけの家なのに。
大事な場所を汚された。
大切にしていた服を、汚されてめちゃくちゃにされた気分だ。
「出て行って。いますぐ消えてなくなって!!」
大嫌い。
大嫌い、大嫌い、大嫌い――!
脇机の上に手を伸ばす。
飲み干したばかりのグラスをつかみ、相手へ目がけて投げ飛ばす。
小さく悲鳴がした。
相手の腿に当たったグラスが床に落ちて大きな音を出した。飛び込んできた音は、喉奥のむかつきを苛烈にさせる。
(気持ち悪い)
右手で口を抑えて、左手で投げられるものを探す。
追い出さなければ。守らなければ。
ここが。ここまでも失ったら、わたしは。わたしは――。
机上を捜索していた左手が突然動かなくなった。手首を圧迫してきた力は痛みと伴わず、それでも強い不快感があった。
「ディアちゃん、止めな」
左手をつかんできているのはヤクスという男だった。
数えるほどしか会話をしたことがない相手だ。どうしてこの男までいるんだろうか。
「サキちゃん、むやみに動かないでね。ガラスを踏むとまずい。悪いけど、炊事場に箒がないか探してきてくれないかな」
「勝手に家のものをいじらないで……!」
精一杯の抗議をしたのに、サキは部屋から出て行った。
「駄目だよ。ほら、寝床に戻ろう。顔が真っ青じゃないか」
ヤクスが、背中に腕を回してきた。
「やめてよ、触らないでっ。あっちに行ってよ!」
振り回した右手は思いがけず相手の顔にぶつかった。伸ばしたままになっていた爪が、男の顔を深く抉る。
顔が顰められる。息を飲み、ぶつかった箇所を確かめる。男の頬に赤い筋が刻まれていた。
血がゆっくりと滴って流れていく。
「あ……」
右手を見やれば、爪と指の合間に赤い皮が付着していた。
「いや……」
喉の奥でせき止めていた嘔吐感が、勢いをつけて昇ってくる。
「い、やだ……」
目の前が真っ白になった。
せめて、誰もいない場所へと顔を向けてから俯く。背中を押されたのが合図となり、最悪なことが起こった。
背中を擦られる。
止められなくて涙が出た。
「……大丈夫。大丈夫だから、我慢しない」
戻ってきた足音が、扉のところで静止した。
「水を持ってきて」
「はい」
屈辱だった。
消えてしまいたかった。
涙がぼたぼたと落ちる。苦しくてたまらない。嗚咽と一緒に、また喉から苦味がせり上がってきた。
背中を大きな手が撫でている。
ぐちゃぐちゃの自分を確認されているかのようで、鳥肌が立った。
ひとしきり苦しんで。
介抱されて。
喉の締め付けから解き放たれた時、もう泣くことしかできなくなっていた。