蒼天のかけら 第十一章 神籬の遺跡
神祇官
気がついたら、周囲は白の世界だった。
目の前には朧な人が立っている。
長いローブをまとった人の顔に、濃い影がかかっている。気配は確かに感じられたけれど、この大地には生きていないと直感した。
『悠久の果てに生まれし女神の子よ。よくぞ参った。望みを聞こう』
望み、と復唱して朧な人に問い返す。
貴方は誰か。ここはどこなのか。
アナベルは。ジョーイは。あの場に残っていた全員はどこにいるのか。
思いつく限りの質問を並べ、やってくるだろう返答を待つ。
『我は望みを叶えるべく待っていた。果ての子よ。汝は何を望むのだ』
意味がわからない。
しかし、わからないなりに理解しようと思考を巡らす。
ジョーイが言っていた遺跡の話。神聖時代の民の話を掘り起こし、朧な人は神祇官ではないのかと行き当たる。
『果ての子よ。汝の心は千々に乱れておるな』
ご指摘ごもっとも。望みと聞かれても何も浮かばなかった。
この人に答えを渡せば、任務完了なのではなかろうか。だとしたら責任重大。軽々しく答えるなどもってのほかだ。
『答えられぬか』
……素晴らしい。
過去にいた神祇官は、大変に気の利く方であったらしい。
『では汝の望み、汝の心に問うてみよう』
突如として、当たり前だった毎日の続きが道となり出現した。
朝起きて。おはようの挨拶をしてから鍋を洗って、玉葱を切る。
村長はくたくたに煮た玉葱が好きだから、朝食には必ず入れるのだ。できあがったら村長と、旦那さんと一緒に朝食を済ませる。
食卓を片付けて、布巾で拭いていると扉が叩かれた。
誰だろうと思って扉を開いたら、旅装束に身を包んだ黒髪の彼が立っている。近くまで行商にきたという彼に、急いでお茶を振舞う。
お茶を持っていたら、すでにお土産が広げられていた。
聖都に住んでいるという黒髪の商人から、髪飾りと香油を譲られる。食事代と言っているけれど嘘なのは知っていた。
彼は自分が見ていない間に、ちゃんと料金を支払っている。前に、旦那さんがそうだと教えてくれた。
髪飾りをあてられて、よく似合うと誉めそやされる。恥ずかしくて火を吹きそうだ。
照れ臭いながらもお礼を述べていると、また扉が叩かれた。あたふたしつつ扉を開ければ、お医者様が立っている。
お邪魔虫がきたと黒髪の彼が拗ねた。ひどいなーとお医者様が言う。
彼の隣に座ったお医者様が、たくさんのお茶を注文した。今日は集まる予定だから、と。
大変だ。
集まると言ったら皆だろう。隅に片付けていた椅子を大急ぎで並べる。
聖都からの用事でやってくる彼等は、この店を集合場所にしているのだ。食事の量は間に合うだろうか?
しゃべる二人を置いて、炊事場に駆け込む。旦那さんに追加を伝えて、一緒に仕込みへと入る。
ビエタに開いた食堂は、今日も満員御礼だ――。
失われて諦めた日々が夢をまとって踊る。望んでいいと言われた石畳の道は、想像以上の煌きを帯びて続いている。
『問う。汝の望みはこれか』
答えられなかった。
違うと言えば道が消える。惜しいと思って何がいけないのか。
心の中で自分が叫んでいた。甘い世界が幸福と、そう思って何が悪いのか。
目の前にある。
手を伸ばせば届くのに、何故なのか。
服の下に隠していた丸い感触に重みが加わった。石畳の道に通じている宝珠が、声高に主張する。
使えばいい。望めばいい。平穏な日々の続きに帰りたくないのか……と。
胸が痛い。
痛くて、痛くて、苦しい……。
けれども、言葉が生み出せない。どうしても答えを出すことができなかった。
『見出せぬなら示そう。真実を通し、汝の心のままに望め』
神祇官が言う。
そうして煌きを帯びた道を消し、あの日を映した。
(――火事だ、お山が燃えているぞお!)
飾り付けをしていた手を止め、クレタお婆さんの家から飛び出した。
赤く照らされた道端で、エイネルさんが女神に祈りはじめる。祈りを止めさせたのは村長だった。
(皆、倉庫の裏に集まれ。風が強い。吹き下ろしがくる……)
物は捨てろ。命だけでいい。いまさら強欲になってどうする。墓に入るなら身体一つで十分だ。
口々に言い、手を貸し合って倉庫裏に集まる。
動けるのは自分だけだった。井戸から水を汲み上げて、倉庫の外壁にかける。
かけている間に、各々の家に火がついた。村長の家は最初に燃えた。食堂にもついに火が移った。
(……サキ、もう無理だよ。こっちにおいで!)
吹き下ろしが強すぎる。女神に祈るしかない。そう言われて、気づかずに流していた涙と一緒に、抱き締められた。
声も出せないまま泣いているのを、皆して心配してくれた。
大丈夫。お前だけは助けてもらえるよう、お祈りするからと言う。嫌だと首を振れば、お山から隠すようにかばわれた。
泣いている自分から色が抜ける。ほろほろと抜けて炭色となる。
見ていられなくて目を閉じた。
真っ暗になった視界に、自由が与えられる。
神祇官が目を寄こしたのだと理解する。
過去にあっても自由な目は、まるで鷹のように高くまで昇る。
お山が燃えていた。
燃えているお山の上空に、二つの人影が浮かんでいる。
紅の中で、白い光をまとっている人影。鷹の目が人影に追いついた。
上空で半身ほどの大きさもある輝尚石を掲げ、真術を展開している女の姿。そして、微笑みすら浮かべて見下ろしている男の姿。
唇を噛み締めた。
信じられないほどの熱い憤りが、心臓から全身に行き渡る。――お山を燃やしたのは、フィオラとジーノだったのだ。
鷹の目が失われた時、自分は燃えるお山の中にいた。
記憶の中を、力の限り駆け抜けた。
無我夢中で傾斜を上がる。視線は上空で浮かんでいる二人を刺したまま。血の味と共に、炎の道を駆けていく。
(許せない)
お山を燃やして。村を燃やして。
(許さない)
何もかも燃えた。大事な思い出の品達は、救出する暇すらなかった。
(絶対に、許さない――!)
やさしい村だった。大切な時間だった。もぎ取られた痛みを思い知らせてやると、怒りの薪を重ねる。
(ああ、そうか)
陣営でのおかしな様子を思い出す。
ローグは気がついたのだ。
お山は守られていた。いまだ真術は周囲に影響を及ぼしていた。
そのお山が、火の不始末くらいで燃えるのはおかしい。意図的に強大な力をぶつけなければ、あの世界は壊せない。
走りながら叫びを出した。
涙が邪魔だった。上空に浮かぶ敵の姿を隠してしまう。故郷の仇を、自分の弱さが遠ざけようとする。
『汝に問う』
響いてきた神祇官の声。邪魔をしないでと念じ、山道を駆ける。炎を潜って、フィオラとジーノのところまで向かう。
『望みは力か。力が欲しいのか』
力。戦う力。もちろん欲しい。
『何ゆえに欲するか』
仇を討つのだ。こらしめて悔い改めさせる。せめて、そうしなければ気持ちが治まらない。
『何ゆえか』
二重の問いは。薪を燃やし、血の味を深くする。
何ゆえ? だって痛いから。悲しくて苦しいから。大切だったから。
そこまで考えて立ち止まった。
炎の中で、心に立つ人影を見つける。
痛さで軋んでいた胸。辛がっていた身体の中心に、手をあてる。
痛いのは、引っ張られていたから。
引っ張って戦っている自分は、思いもかけない場所にいた。
大切な思い出を破壊され、涙を流している過去の自分の傍らに。
安穏とした世界を望み。苦痛と恐怖を厭い、遠ざけることを望んだ自分とは反対側に。
たくさんの色をポケットに詰めて、そちらに行くなと言っている自分がいた。
涙を流している自分の周りは、炭色に埋め尽くされている。
その灰色の大地で色彩を集め、一人抵抗を続けている三人目の自分。
持っているのは空色。藍色。柘榴に紅水晶。赤と桃と金と藍。白銀と青銀もあって、ポケットはもう破れてしまいそうだった。
その中で、どれよりも鮮やかな黒が転がってくる。
声がした。
神祇官の声ではない。馴染んだ低い声だ。
(サキ、おいで。一緒に行こう)
記憶にない彼の言葉。
(たくさん泣かせるだろう。守りきれないかもしれない。それでも……)
天啓の形をした気づきが、全身を貫いていった。
ああ、そうか。
迷う必要は、最初からなかったのだ。
神祇官に答えを伝える。出したことがないほどの大声が出た。
一緒に――戦いたい、と。
『汝の望み、しかと聞き届けた』
虹の風が起きた。
風は記憶の村を。燃えるお山を。憎い相手をも巻き込んで、高く昇る。
気がついたら、広い場所に一人でいた。
水晶でできた遺跡。前後左右も明確でない場所に、ぽつんと立っている。
円形の広間で起こったことを解釈する。整理しきれずもたもたしていた頭に、また声が届いた。
『与えよう。そして、見届けさせてもらおう』
声が消えた時、目の前に光の円が生まれた。
渡ってきた気配を感じ取り、飛ぶように後退してポケットに手を入れた。
「……おやおや、相変わらず愛らしい琥珀だねぇ」
ぞわりと首筋が粟立った。
記憶が力いっぱい警告を発している。
「何やら水を差されたか。古い人間というのは、いつの時代も自由を理解しない。下世話なことだ」
飢えた獣がもつような金の瞳。
どうすると聞いてきた声が、おぞましくて堪らない。
「"鼠狩り"の姿はないよ。一人で戦ってみる気かい。……ねぇ、狩人のお嬢ちゃん」
ラーフハックは、その長い爪を見せびらかしながら不揃いな水晶達を撒く。いびつな水晶が床に散らばり、頭痛を引き起こした。籠められた気配が嫌悪を誘発する。
嫌悪に耐え、視界を確保している自分の意地が魔獣の姿を捉えた。
水晶から生まれた魔獣は聖都で見たものより大きく、強い気配を醸し出している。
「こういうのはどうだろう? "鼠狩り"が到着した時には、お嬢ちゃんが血で着飾っている。きっと美しい色をしているよ。若い娘の血は遺跡によく似合う。紅の臓物を撒いて転がっておくれ。あの男が大喜びする様を、ぜひとも見てみたい」
金の獣が嘲笑う。
頭痛がひどく、吐き気がきつい。――それでも、身を屈めて獣の群れと対峙した。