蒼天のかけら  第十一章  神籬の遺跡


一緒に帰ろう


 寝床の脇机に、食事が乗せられている。
 イクサが持ってきてくれた食事は、おじさんが作ったものだという。
 一口でいいからお食べと言って、彼は出て行った。
 でも、まだ居間に気配がある。
 何かあったらこれるように。きっと、わたしが寝るまでそこにいてくれる。
 皿を手にして、スプーンにブロッコリーを乗せた。
 嫌いな野菜だ。見た目からしてもう嫌いだった。
 嫌いだと思いながら食べる。柔らかく煮込まれたブロッコリーは、口の中で解けるように潰れる。
 解けたものを飲み下して、またスプーンに乗せる。
 食べたくないけど、食べないと心配させる。彼のためだ。大切な彼のためだからと言い聞かせて、また口に運ぶ。
 嫌いな野菜を三つも食べた。食べたから寝床に転ぶ。
 これでいいんでしょうと心で思って、冷えた掛け布があたたまるのをじっと待つ。
 虫の声がうるさかった。これでは寝られないと思いながら、目を閉じた。
 明日は、好きなものだけ食べようと心に決めて。






 翌朝。
 自分はまんまと寝坊した。
 日が高く上がってから覚醒して、大慌てで起き上がった時、あまりの頭痛に呻き声を出した。
 痛い。
 痛過ぎる。
 一体、何事かと思って、飲み過ぎだと気がついた。
 思えば、宴の途中から記憶がない。
 やってしまったと思い。まあ、いいかと諦めた。
 昨日は特別な日だった。だから女神様も許してくださるだろう。
 痛みに呻きつつ、のそのそと寝床から這い出る。ヤクスの薬湯はまだ残っていたはず。とにかく飲んで、身支度を整えて挨拶しに行こう。日が上にまできてしまったら「おはよう」が言えなくなる。
 この朝を逃したら、次はいつになるか知れない。絶対に言うのだと決めて、頭を抱えて居間に赴く。

「飲み過ぎだ」
 呻きながら辿りついた居間には、とうに起きていたローグが長椅子で待機していた。自分の有様を確認した彼は、苦言を呈しつつ代わりに薬湯を拵えてくれた。熱くて苦い薬湯をすすり、ごめんなさいと口にする。
 同期の面々は、すでに里へ帰ったようだ。
 自分達は昼食の後、里に帰還する。
 いまの状態だと朝食は難しそうだ。でも、昼食は食べられるだろう。いいや、絶対に食べる。
 旦那さんの食事だって、昼を逃したら次の機会がわからない。絶対に一緒に作って、一緒に食べる。もう決めてしまった。
 決定事項をローグに伝えると、くつくつと笑われる。
 子供っぽいと思ったのだろう。でも、今日だけはいい。子供っぽくて結構である。
「サキは、ジュジュより甘えただな」
「……ジュジュよりは、マシです」
「そうか?」
「そうです」
 掛け合いをしていると、部屋からジュジュが顔を出した。「呼んだ?」という顔をしている子に、違いますよねと聞いてみた。
 途端、くったりと肩を落とした子は「わかんないってば……」と言っているようだった。
 ああ、そうだ。
 村長と旦那さんにジュジュを紹介していなかった。帰る前に会わせようと決定事項に追加する。
 あれもこれもとしたいことを口に出す。
 一人では覚えきれないから、半分持ってもらおうとの思惑だったけれど、それを彼が笑って止めた。
「ビエタには神殿があるらしい」
 だから、春になったら会いに行けると彼が言う。
「……本当に?」
「ああ。オーベンさんが言うには小さい神殿らしいけどな。正師に確認したらパルシュナ神殿に通じていると言っていた」
 導士は、めったに帰郷が許されない。
 真導士の生活に慣れない内に里から出ると、真術の扱いが乱雑になる。"暴走"や"暴発"を起こす危険が高くなるから、冠婚葬祭くらいしか許可がもらえないと聞いた。
 けれども、令師の元で修行を終えれば帰郷は自由。パルシュナ神殿に通じているなら、それこそ聖都に下りるのと変わらない。
「いつでも会えるようになる。だから、落ち着いて飲むといい。急ぐと火傷するぞ」
 穏やかな黒が、朝日に照らされて鮮やかな色を出した。
 はいと返事をして、薬湯に口をつける。
 本当はもう火傷していたけれど、気づかれないようにすする。後で一人になったら癒しをかけることにしよう。

 しばらくすると頭痛が治まった。
 さすがは大先生と心で褒めちぎり、いそいそと食堂に向かう。
 椅子に腰掛けていた村長と、炊事場で仕込みをしている旦那さんにおはようの挨拶をする。揃った「おはよう」が返ってきたので、ぬくもりが消えない内に、そっと胸に仕舞った。
「手際がよくなったねえ」
 仕込みの最中に、旦那さんからお褒めの言葉をいただく。
「たまに食事会をしてるので慣れてきました」
 初めてローグに食事を出した時、思っていた以上にたくさん食べるから驚いたこと。彼が特別なのかと思ったら、実は違ったこと。最近は家にくる人が増えたから、よく食材が足りなくなること。それを当人達が取りに走ってくれること。
 そんな取りとめもない話を二人にした。
「そうかい、そうかい……。なあ、サキや。春になったらお役目が変わるのだろう。どこに引っ越してもよくなると聞いたんだが」
 誰かから聞いたのだなと思って、はいと返事をする。
「どうだい。一緒にビエタで食堂を開かないか?」
 葱を刻んでいた手が、ぴたりと止まる。
 目の前に、美しい道が見えた。隅々まで手入れされた石畳の道。
 美しい道は瞬きをしたら姿を消した。代わりに、ささくれが出ている自分の手が見えた。
「旦那さん。わたし夢ができたのです」
 どこまでも広がる女神の大地。
 この大地にある、たくさんの色。
「……聖都にきて、知らないことだらけでびっくりしました。いまも毎日びっくりしてます。だから、旅をしようと思っています」
 ことことと鍋が煮えている。
 じっくり煮込まれている野菜達の中には、やっぱり玉葱の姿があった。
「色々な場所を見て回るつもりです。ローグと一緒に。……彼は商人なので、行商でもしようかと話してます」
「そうか。そうか……」
 寂しそうな声だと思った。
 でも、悲しそうではなかった。
「もちろん、ビエタにも行きますよ。そうしたらお店を手伝いますね。ビエタに行く時は、二人が見たこともないような食材を仕入れてきます」
「そうかい。……うん、そりゃいいねえ。せっかく遠くまで行くのなら、すごいのを仕入れてきておくれよ」
 はいと返事をして、ちらりと食堂を覗く。
 村長のカップが空になっている。すでに沸いていた湯でお茶を入れて持っていった。
 カップを交換すると、いつもと同じように「うん」と頷き、お茶を口にする。
 ゆっくりと含んで、ありがたそうに飲む。
「……ああ、美味い。やっぱり長生きするにはテヘラのお茶が一番じゃの」
 いつも通りの言葉を受け取って、また胸に仕舞う。
 日に日に風が冷たくなっていく。冬を越すためにはぬくもりが必要だ。
 もっと、たくさん。
 そう、それこそポケットが破れるくらいに。



「身体には気をつけるのじゃよ」
 楽しい時間はあっという間だ。
 迎えの馬車の前で、二人と別れの挨拶をする。
 皆で過ごした陣営は、親鳥の手によって仕舞い込まれてしまった。残っているのは幕だけで、急に寒々しくなったように感じる。
 村長も旦那さんも、大きな建物が消えてしまったのがいまだに信じられない様子だった。
 二人の驚愕を見て、すっかり真術に毒されたと友人達が笑っていた。
「風邪には気をつけてください」
「春になったら、顔を見せにおいで。村長と二人で待っているから」
「はい。必ず遊びに行きますから、腰を大事にしてくださいね」
 それじゃあと言って、まず旦那さんが馬車に乗り込んだ。おたまを持ちながら手布を取り出している姿を、目に焼きつける。
 村長と手を取り合い、春にと挨拶する。
 顔色が、昨日よりもよくなっている。心なしか背中が伸びているようにも思う。
 荷物を下ろして、楽になってくれたのだろう。数奇な巡りあわせだったけれど、女神に深く感謝した。
 しわの手が離れた。
 最後までがんばろうと、目に力を入れる。
 馬車に乗る直前、村長とローグが握手を交わした。言葉がないまま交わされた握手は、どうしてか強く印象に残った。
 合図があり、馬車が走り出す。
 手を振る二人に、大きく手を振り返す。馬車が見えなくなるまで手を振って、また春にと呼びかけ続ける。

 馬車の姿が消えた。
 でも、まだ手のぬくもりが残っていた。あとちょっとだけ感じていたくて両手を握る。
 転送が描かれた。身体がふわりと浮かぶ。
 長い長い浮遊を越えて、渡ってきたのは中央棟の大階段前。
「諸君、よくぞ戻ってきた。これにて実習は終わりだ。気をつけて帰るように」
 がんばりも、この台詞で終わりを迎えた。
 ぺたりと床に落ちて涙をこぼす。大丈夫、また会えるよとの慰めに、頷き続ける。
 フードが下ろされた。
 両肩に熱が灯る。顔を上げれば、目の前にきれいな黒が見えた。
「帰ろうか」
 こくりとまた頷いた。
 帰ろう。二人の家に。一緒に手を繋いで、家路を行こう。
 でこぼこしたあぜ道もあるけれど、皆で一緒に歩いて帰ろう。

 袖で涙を拭い、見上げたのは一枚の絵。
 正鵠アーレスの背中は、今日もまばゆく輝いていた。

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