蒼天のかけら 第十二章 譎詐の森
頬のぬくもり
家に戻ってきた時、ローグは難しい顔をしていた。
今日の会合は長かった。内容も比例して複雑なものだっただろう。午後は午後でやることがある。せめていまくらいは……と、くつろいでもらっている。
食べ終わったお皿を炊事場に持っていく。食欲は大丈夫なようだ。お昼もぺろりと平らげてくれた。
とりあえず一安心である。
「リナさん?」
「ああ、面識はあるか」
天井を見ながら記憶の棚を覗いてみた。
名前は聞いた覚えがあった。修道女見習いだったという話も聞いたことがある。
「お会いしたことはあるような気がします。でも、喫茶室にはいなかったかと」
彼女はお祈りをしているわ。
そう教えてくれたのはどの娘だっただろう。
「でも、娘の誰かから嫌な気配を受け取ったことはありません」
伝えれば返事までに小さな間が生まれた。
あれ、と思って炊事場から顔を出してみたら、彼はせっせと書きつけをしていた。
……もう、返事くらいしてくれたらいいのに。
ぷくりと頬を膨らませへそをまげる。
気づいてもらえないから意味がないし、だからこそ恥ずかしくない。負の感情は、溜め込んではならないのである。
「だから、彼女が繋がっているとは思えないです。とんぼ玉も誰かから譲られたのでは……」
ヤクスが持ってきたというとんぼ玉には、色紐と同じ真術が籠められていた。
霧と同じ毒々しい真力。フィオラが撒いたのは確実だ。
「結論は急がなくてもいいさ。どうせ明日になったらすべて明るみに出る」
リナを疑うよりも、彼女が術具を拡散しないように監視するのが優先。優先というか、もうそのくらいしか余力を割けない。見回り部隊では難しいということで、リナの件はキクリ正師が対応してくれるのだそうだ。
「正師って大隊長と一緒にいると部下っぽいですよね」
投げかけると居間の方からくつくつ笑いが返ってきた。
「いまの調子ならあと十年は直らんな」
忍び笑いをしつつ、鍋の具合を見た。
「料理もそろそろできあがります。熱が冷めたら詰めましょうね」
明日は決戦の日。
のんびり食事とはいかないだろうけど、食べなければ戦えない。なので携行食の準備をしている。ジャムに少し手を加えたものと塩漬け。それから乾物。もしも家に帰ってこれたらと鍋にスープも作ってある。
これだけあれば一日は十分にもつ。
食事の支度ができたなら、お次はローブの準備だ。
ぱたぱたと部屋に戻り、冬のローブと裁縫箱を取ってきてから彼の隣に腰掛ける。
「ローブ、どうしたんだ?」
もらってきたばかりだろうと不思議そうに聞いてきた。
「……娘のローブは不備が多いのです」
四大国は女不足。
その比率は真導士となっても大して変化がない。今年のように男女半々という比率の方がめずらしいという。
だから娘のローブより、男のローブの方が在庫が多い。
その状態で当たり年がくれば、娘のローブが足りなくなる。そのせいか、ほつれがあったりボタンがゆるかったりと、不便な問題が発生している。
夏のローブでボタンのゆるみを見つけた時、たまたまだろうと思っていた。しかし、喫茶室で話を聞いたら皆して同じ体験をしていた。
髪と服は身だしなみの基本。知らずに着てしまったら恥をかく。
一緒になってぷりぷりと怒り、冬のローブは気をつけようと誓い合ったばかりだ。
ローブに針を通しながら、本日の会合について情報を共有する。
どうもまた難しい話だった様子。
よくこれだけの話を覚えていられたと感心する。その彼がジョーイにはかなわないというのだから、あの博士殿の知識量はとんでもないのだろう。
針仕事をしながら耳に流し込まれたのは、見知らぬ知識の軍勢。入りきるだろうかと不安に思いつつ、頭にぐいぐいと詰めていく。
「古代術具が怖いですね」
「一つ出てきただけで常識が引っ掻き回されるから、注意が必要だ」
古代術具には抹消された過去の真術が籠められている。
古代真術はいまの真術より強力。生華時代のものでまだよかった。不幸中の幸いだったとジョーイがこぼしていたようだ。
神聖時代の。それこそ"女神の涙"を基礎にしている術具は、リーガが所有していたもの遥かに高度なのだとか。
「気配が探れればいいのですけど……」
「難しいかもな。例の筒も触れてみたけど、ほとんど何もわからなかった。気配を抑える技術も発展していたのだろう」
声に耳を傾けてから胸元を押さえた。
身に溶け込んだ"神具"は、ここに眠っていた。眠っていても力を感じる。圧倒的でかつあたたかい気配がしている。
けれど、この気配は自分だけが感知できるようだ。
隣にいても。それこそ真眼を触れ合わせても、何も感じられないと彼は言う。
「まだ、ばれていませんよね」
「大丈夫だ。絶対にばれていない」
"神具"は奥の手だ。
邪悪がよみがえってしまった時の最終手段。まず何よりもよみがえりの阻止。つまり同期を守ることが一番なのだ。
「鏡の真術は、全部弾いてあるのですか」
「そのように聞いている」
「では、家にいれば安心ですね」
この事実を共に喜ぼうとしたのに、何でか彼はしぶい顔をしている。
「……どうだろう」
他の家具に真術が掛かっている形跡はない。
内勤の高士が徹底的に調査し、最後はムイ正師が一軒一軒回って確認した。
ここまでしたら大丈夫。そうだと思いたいのに、彼の顔からしぶ味が抜けない。
「怪しいところがあるのですか?」
「いやな、しっくりこなくて」
十二年前の導士が全員いなくなったという話と結びつかない。
娘はともかく、男の部屋には鏡がないこともある。確実に全員を運べる方法かと言われると、ずれがあるように思う。
彼が言うと説得力が倍増する。
出てきた不安に対抗しようと、持てる知識からそれらしいものを拾って差し出してみた。
「えっと……。でも、十二年前は装飾具も出回ってましたから」
「ああ、そうだ。でも着けていない者もいたろう。十分かと言われるとな」
二人でしばらく悩んでみたけど、結局答えは出なかった。早々に諦めて、ゆれが出てきた気力を深呼吸で整える。
「すまん、いたずらに不安を増やすつもりはなかった」
「何を言いますか。負の感情は外に出すべし……です」
デコピンしますよと言ったら、彼はご勘弁をと言って小さく笑った。
笑いを耳に入れて、また深く息を吸った。
大気が昨日よりも冷えている。振り返れば、冬がくるまではあっという間だった。あたたかな春の日差しが、もう懐かしい。
「……皆さん、いい人達です。真術の影響がなければ、もっと仲良くできていたように思います」
何度も謝ってくれたのに、まだ謝り足りないと頭を下げてくる人もいる。お詫びがしたいと荷物を持ってくれたり、故郷から届いた品を分けてくれたりもする。
熱がそっと頬に触れてきた。手の甲のゆるやかな動きは、自分の欲をなだめてくれる。
「相棒は一生の縁。同期は一生の腐れ縁。これからがあるだろう」
これから。
共に歩んでいく今日の続き。
冬がきて、年が明けて春が来て――。
巡っていく季節に思いをはせながら「いまだけは」と許しを願い、頬のぬくもりに酔いしれた。