蒼天のかけら 第十二章 譎詐の森
夢幻の金
真っ赤だ。
どんなに嫌だと叫んでも、両手についた血が消えてくれることはなかった。
どうしてだろう。
何で、いつもこうなんだろう。
違うの。
本当は、違うの。
やさしくしたい。うれしいって言ってもらいたい。大好きだって抱きしめて欲しい。
でも、いつも駄目。
みんなわたしが嫌いで。かわいくないって。憎たらしいって思っていて。だから毎日毎日苦しくてたまらない。
仕方ないでしょう……?
嫌いって言われたらやさしくしてあげられない。かわいくないって言われたら、あなただってかわいくないって言いたくなる。憎たらしいって言われたら、嫌な目に合ってしまえって思うでしょう。
だから仕方ないの。
わたしだって辛いもの。苦しいもの。同じだけ苦しめばいいって思うのが普通だから。
(ディア。そう、君はディアって言うのか)
ああ、でも何でだろう。
貴方だけは違った。汚いものがいっぱいの世界で、唯一きれいに輝いていて……。まるで星のようだって思ったの。
昔、本当のお父さんがくれた宝物。
お婆さんのお婆さんの、ずっとずっとお婆さんから大事に受け継がれてきた金の星。あの時、お父さんはディアにはまだ早いけどねって笑っていた。誰にも内緒だよって言われたから、ずっと大事に隠しておいた。お父さんがくれたあの耳飾りとまったく同じ色をして、きらきら光る素敵な人。
(いつも泣いているね。何か辛いことでもあったのかい)
やさしくて。
あたたかくて。傍にいるだけで幸せで。
わたしは汚れているから、とてもじゃないけど触れられなくて。毎日、傍で見ているだけだった。いつかきれいなわたしになれたら、そっと触れてみたいと夢を見てた。
夢を見るくらいは許されるって思っていた。
でも、やっぱり駄目なんだ。わたしがわたしだから駄目なんだ。だって、こんなに汚れてる。ローブは泥だらけだ。両手も真っ赤に染まってる。
彼に触れてはいけなかった。
あんなにきれいだったのに。きらきらまぶしく輝いていたのに、赤く汚れてしまった。わたしが汚してしまった。
(……ディア、どうして)
ごめんなさい。
傍にいたいと思わなければよかった。触れてみたいなんて考えなければよかった。森で会わなければよかったんだ。
(君は――)
迷惑かけてごめんなさい。汚いわたしでごめんなさい。好きになってごめんなさい。
本当は知ってたの。
わたしがいけないって。悪いのは自分だってわかってた。
全部が汚れてるせいで、紅い目を通して見た世界もくすんで汚く思えるの。汚れているのは世界じゃなくてわたしなんだって、ずっと前から気づいてた。
――ディア。
いなくなってしまえばいい。
――聞こえているか。
やり直そう。最初から、全部やり直したい。
華魂樹に行って汚れを落として。まっさらな魂になれば、きっと愛してもらえるから。
――わかるか。こっちを見てくれ。
だから、こんな汚れた命は消えてしまえばいい。誰よりも大嫌いなわたしごと、きれいさっぱり消えてしまえば。
こんなわたしなんか、もういらない。
「ディア!!」
目に飛び込んできたのは、きれいな色石。ふるふるとゆれて、色を変える見慣れた石だった。
「……ディア」
熱い息が頬にかかった。苦しそうに吐き出されている呼吸が、白いもやを作っては消える。
イクサが苦しんでる。
わたしが傷つけたせいで、たくさんの血が流れていた。
身体が彼の真力に包まれている。やさしい真力が罪に沁みる。自分の意思で鼓動が止められれば楽なのに。
右肩に強くてあたたかい感触があった。
きれいな左手が、汚れた肩をつかんでいる。思わず嗚咽が出てしまった。
「ご……めん……なさっ…………」
……ああ、思ってた通りだ。本当は女神様なんていないんだ。もしいるなら、わたしを裁いてくれるはず。雷を降らして、この身を焼き消してくれるはずだ。
パルシュナはいない。どれだけ待っても救いはこない。
頭が熱い。
目の奥で燃えているものがある。
燃えて。全部燃やして。そうしたら世界がきれいになるだろうから。
「ごめんなさい……。わたし、わたしがっ……!」
「ディア!」
顔が彼の両手につかまった。
左の頬がぬるりとすべる。熱い血から鉄が香ってきた。イクサを怖いと思ったのは初めてだった。
目の前には彼の瞳がある。恥ずかしくて。とてもじゃないけど覗き込めなかった紅簾石。近くで見ても本当にきれいで……涙が勝手にあふれてきた。
よく通った鼻筋に、額の汗が流れていく。
痛みが彼を苛んでいる。わたしが苦しめている。
誰よりもきれいなこの人に裁いてもらえたら、少しは汚れが落ちるだろうか。
考えた分だけ頭の熱が高くなる。目の裏側で、身体が焼け崩れる情景が浮かんでいた。きれいな目に一人の罪人が映っている。華魂樹に下ろしてもらう時も、この光景を忘れないでいれたなら――。
「また、泣いてる……」
左目の下を、彼の指が撫でる。
頬で、血と涙が混ざったように感じた。
「……っ、悔しいな」
悔しくて腹が立つ。
イクサは笑っている。今朝、挨拶をした時と同じように笑っているけど、別人みたいに思えた。
「どうしても上手くいかない。初めてだよ、ここまで……。こんなにも思い通りにいかないのは……っ」
大地がゆれて、熱い頭がぐらついた。
地震かと錯覚したけれど全然違う。信じられない思いがした。濁って汚れていた世界が、金で埋めつくされてしまったのだ。
身体ごと、思考と目が金色に奪われる。金の世界で思い出のかけらを見つけた。
父に抱かれ、安心して眠っていた記憶。夜も朝も、ちっとも怖くなかったあの頃のわたし。
「いらないって言ったのは君だよ……」
自身を捨てたのはディアだ。己の意思で捨てたのだから文句はないだろう。
「放棄した以上、何も言う権利はない」
微笑うイクサから血の臭いがしている。きれいな人に不似合いなはずの臭い。でも、不思議なことに彼らしいと感じてしまった。
耳にささやきが来た。
やさしい声が、未来を告げる。
「ならば、オレが貰う」
思い通りにならないディアのすべてを、オレが貰う。怒りも悲しみも。恐怖も幸福すらも。
君のすべてを支配してあげよう。
「何も考えなくていい。代わりはオレが請け負おう。苦しまなくていい。余計な感情は、持つ必要もない」
全部を貰う代わりに安息を与えてあげる。
「いまからオレが、君の支配者だ」
血に紛れて真力が香る。
親しんだ香りだ。包まれるたび心臓が痛くなる、幸せな気配。
「……吐き出せ、ディア。君の真力は他の気配に触れてしまった」
彼は言う。支配するに相応しく――と。
汚れた真力を吐き出せば、わたしのすべてを金にしてもらえる。そのささやきは、疑う気すら起きないほど甘く響いた。
夢幻の世界が眼前に広がる。
灼熱となった真力が真眼から飛び出ていく。真力がほとばしっていく間、痛くて痛くてたまらなかった。それでも夢中で吐き出した。
悲しかった過去も、辛かった日々も、大嫌いだったわたしも全部。そうして最後に意識も奪われて。わたしはわたしではなくなった。
それがこの上なく、幸せだった。
いまのいままで平然としていた顔に、荒れたものが走った。
「――残念だったな」
イクサは相棒の"暴発"を食い止めた。真力が枯渇した娘を抱え、"共鳴主"に対して不敵な笑いを示している。
荒れた劫火が、真眼から派手に散った。
狙いを砕かれたのがよほど癪に障ったようだ。
「……はっ、下らない」
その表情と裏腹に、冷めた台詞を吐き捨てた。手には"格納の陣"の輝尚石。燃え盛る劫火に紛れて、水晶から風がそよいでいる。
「どいつもこいつも。サガノトスは役立たずばかりだ」
「サガノトス、は……?」
聞き返しを最後まで許さず、蔦がうねりながら脇をかすめていった。蛇のような蔦は旋回している真円から飛び出し、身体に傷を刻んでいく。
「どれほど修行を積んだ。一年やそこらではないだろう」
触れられる以上、それは確実に構築されている。
「答える必要などありませんね!」
連続した攻撃を、風に乗りながら避けていく。
「貴様、いつから奴等と繋がっていた!」
炎豪を走らせた。
闇夜を切り裂き、熱色の槍がエドガーに迫る。炎が男を飲み込むかどうかというところで、気配の移動を認識した。
(転送か!?)
背後に回ってきた相手から、またも蔦が生み出された。精霊を励ますよう真力を放ち、巻き込もうとしてきた蛇の真術からどうにか逃げおおせる。
「ちょこまかと。……貴方の相手も飽き飽きしてきました。いい加減、終わりにしましょうか」
エドガーがポケットから出してきたのは、頭蓋骨の形をした銀色の術具。
「僕の邪魔を未来永劫しなくなるよう、魂ごと封じて差し上げます」
おどろおどろしい気配をまとった術具が、自分の真眼に向けてかざされた。
次で終わる。
エドガーの真力は残り少ない。
いまだ彼女を手放さぬところをみると、生贄の運搬を断念していない様子。そうとくれば、次に放った真術が最後の一手となる。
蠱惑を相手にするのは分が悪い。蠱惑の真術は数多く、手を予想するのが難しい。
決めるなら一撃。一撃で戦闘不能にしなければサキが危険にさらされる。腹いせに彼女ごと水晶を破壊されてはたまらない。
冷えた大気が顔を撫でる。熱くたぎっていた血流が夜のなぐさめを受け、動きを静めた。
草原から同期達の声がしている。
励ましと心配。煽り交じりの激励が、箱庭中に響いているようだった。
真眼の付近に精霊が舞っている。早く、早くと急かすような踊りが、緊張をほどよく解していく。
勝負は常に一瞬だ。
夜が蛇の大群に覆われた。
視界を埋めつくす数多の蔦。進路も退路も完全に経たれた緑の世界で、にぶい銀の輝きを見つける。しゃれこうべが呪われた臭いを口から放つ。
おぞましい気配を帯びた奇跡の光が、ただ真っ直ぐに真眼へと向かってきた。