日々のかけら・その1


● 掘り出しもの


「――これ、どうしたんだ?」
「どうしたって……。夕飯ですけれど」
 夕飯だって?
 軽い気持ちで放った言葉は、目の前にいる娘にとってそこまでの重荷だったのかと反省する。
「……言葉が足らなかったな。何もご馳走でもてなせと言ったつもりはない。こんなに手の込んだものは作らなくてもいい」
 出会ったばかりの娘は、ひどく遠慮がちなところがある。一日の波乱を越えてようやく肩の力を抜いたと思ったのに、まだまだ強張りが残っていたようだ。
 どうにも上手くいかん。
 ここまで人に遠慮する奴に初めて会った。これが娘というものか。もっと言葉を選んで話すようにしなければ、気の弱いこの娘を潰してしまいかねん。
「あの、ローグさん」
 恐る恐る話かけてきた娘は、戸惑った様子で強く布巾を握っている。
「……お気に召しませんでしたか?」
 見やれば瞳が不安げにゆれていた。思わずぎょっとして大慌てで両手を振る。
「違う、違う。豪華過ぎて驚いただけだ」
 返答を受けたサキは、あからさまにほっと息を吐いた。
「森を抜けてきたばかりで、ここまでたいそうな飯を作っていたら大変だろう。簡単な物でよかったんだ。無理をして作る必要はないし、無理強いをしたいとも思っていない。今日みたいな日は食堂でもいいくらいだ」
 適当にパンでも焼いて、肉と野菜を挟んで食えばそれなりに腹も膨れる。
 その程度のことをしてくれれば満足だった。まさかここまで手の込んだ食事を作っているとは考えてもいなかったので、つい慌ててしまった。しかし自分が動揺したことで相手に余計な負担を与えたようだ。
 娘相手だと勝手がわからない。早めに慣れるようにしよう。さもなければいつか泣かせてしまいそうだ。
「ローグさん」
「あ、ああ。すまんな、ぼうっとして……。何だ」
 もじもじと布巾を擦り合わせているサキは、一呼吸おいてからようやく言葉を発した。
 だが俯き加減での言葉は、いかんせん聞き取りづらかった。
「ん?」
「だから、その……」

 ――駄目だったでしょうか?

 床に視線を落としたまま言ってくる。
「駄目ではない……」
 むしろ大歓迎だと、美味そうな匂いを出して誘っている夕飯を見る。
「だが、大変だろう。もっと普通に作ってくれていいんだ」
 俯いていた娘が、びっくりした様子で顔を上げた。
「どうした?」
「ローグさん、これって……普通ですよね」
 思いがけない返事を出した娘は、茫然と自分の手料理を眺めている。ここにきて初めて、自分は素晴らしい対価を得たのだと理解する。
 神殿で出会った気弱な娘は、なかなかの掘り出しものであったようだ。
 自身にとっては当たり前過ぎて価値があるとも思っていないのだ。自分の価値も知らぬ様子の娘は、困ったように小首を傾げている。

 ……しめしめ。

 それならばわざわざ価値を伝えずともいい。
 妥当な結論を出して、罠にかかった憐れな獲物に笑いかけた。

● 黒の狼と金の羊

 うーん。
 目の毒とはこういう光景を指すのか。
 薬草を煎じながら、横目でそちらを窺う。ずっと見ていたいと思うような光景じゃないけど、興味くらいは一応ある。
 何せオレだってお年頃。
 色恋に首を突っ込むのをやっと許されたばかり。興味ない何て言ったら嘘になる。
 ここは知り合ったばかりの友人宅。
 その家の住人である天水のお嬢さんの居室だ。
 熱に苦しめられているサキちゃんのため、熱さましを煎じている真っ最中。

 昨日の様子から、医者が必要になると予想して家を出た時。とんでもない勢いで突っ走ってきた首席殿と、ばったり会った。
 学舎へと走り去ろうとしていた相手を呼び止めて、何事かと事情を聞いてみれば。案の定、体調を崩してしまったということだった。
 それで、実は医者なのだと打ち明けた途端、えらい馬鹿力で腕を取られ。そのまま家に連れ込まれた。……正直、肩が抜けるんじゃないかと思った。
 さすがはカルデス商人。大力無双の評判はダテじゃない。
 腕をちょっと動かすたびに、肩がぎしぎしと痛む。痛み止めも一緒に作るか。それとも麗しいお嬢さまに頭を下げるか。

 ……でも、男だから我慢しろとか言われそうだな。

 つらつらと考えて、またそちらの光景をちら見する。
 視線の先には、呼吸するのもきつそうな娘さんが一人。高熱のあまり朦朧としてしまっていて、夢と現実の境をふわふわとただよっている様子だ。
 そんでもって問題は、彼女の脇に控えている男の方。
 眉目秀麗とはこいつのためにあるような言葉だと、密かに思っている。希少な存在である真導士の中で、歴代最も真力が高い男。同期の中でも一際目立っている首席殿……もといローグは、そのやたらと整った顔を曇らせ、荒く呼吸をしている相棒に寄り添っている。
 時々、ずれた掛け布を正してやったり。額に乗せている布を、水で冷やしたりと甲斐甲斐しい。
 まあそこまではいい。
 出会ったばかりの赤の他人と言っても、他の人間より自身に近しい存在だ。何といっても相棒は、真導士にとってかけがえのないもの。しかも相手は年頃のお嬢さんだ。ここで役に立たねば男の恥。
 だから献身的に看護することは当然だと思う。

 ……でも。
 でもなー。ちょっとこれは行き過ぎだろ。

 もやもやとした感想を抱きながら、ちらちらと盗み見ていれば当然相手にも気づかれる。視線を感じ取ったローグは、顔をしかめて「何だ」と聞いてきた。
「いやー、まあ……ね」
「歯切れの悪い……。言いたいことがあるならはっきり言え」
 んなこと言ったって。
 これはどう突っ込めばいいんだ?
「あー……、やっぱり家に帰って出直してこようかと」
「薬は? お前、患者を放っておく気か」
 恐怖のカルデス商人につい気圧される。けれどオレにだって矜持はあるさ。ここだけはしっかり言い返しておこう。

「患者を放棄したりはしないよ。ただ、二人のお邪魔なのかなって思っただけだ」

 目の前で固く手を握られてたら、気が散ってしょうがない。
 すっかり寝入っているお嬢さんの素肌に触れるとは、なかなか油断のならない男だ。
 歯切れよく答えたら、ローグがしかめっ面を緩めた。代わって出てきたのは腹黒い笑顔。人の悪そうな笑顔が心底様になっていて、頬がひくりと引きつった。
「妙な遠慮はしなくていい」
 おお、何て堂々とした返事だろう。
「二人はそういうご関係?」
 もやもやとしているのも気分が悪い。えいやと思いきって聞いてみた。
「いや」
 思いがけない否定に肩すかしをくらう。拍子抜けのする返事をした男は、それでも余裕の表情で腹黒く笑んでいる。
「俺だけ急いでも仕方がないからな。ゆっくり歩まなければ着いてこれんだろう」
 なあ? と同意を求めてくる。腹黒さの上に、いやらしさが上塗りされた。

 ……この好色漢め。

「関係が進んでいないのなら、肌に触れちゃまずくないか」
「拒否されたことは一度もない」
 うわあ、こいつ思った以上に図太い。これが商人か。面倒な奴だと内心で散々なことを言ってやる。
「破廉恥な男は嫌われるぞ」
 ついうっかり、本音の一部がこぼれ落ちてしまった。
 言ってから後悔した。相手はカルデス商人だ。いくら見た目が中身を裏切っていようと恐ろしい相手には違いない。
 会話と会話に間が生まれた。
 だらだらと冷や汗をかき、無言のまま薬草を煎じ続ける。気まずい空気よ流れてくれと、ごりごりやりながらひたすらに念じる。
「どうも、世慣れていない」

 ……よ、よかった。
さっきの言葉は気に障らなかったようだ。意外と頓着しないタチらしい。

「聞いた話を鵜呑みにしてしまうことが多い。小さな村の出自で、疑うような相手がいなかったのだろう。こういうものだと聞けば、そのまま肯く。素直すぎるのも心配なんだがそういう娘だ」
 突然、語り出したローグは彼女の手を擦っている。
 人の悪そうな笑顔とは対照的な動作を、飽きもせず繰り返している。
 聞かずともよかったな。見ればわかる。態度が何よりも雄弁に語っているじゃないか。何とわかりやすい男かと呆れ、ちょっとだけ羨ましくなった。
「だから俺がこういうものだと……。当たり前のことだと言えば、素直に飲み込む。要は疑問を感じさせなければいい」
「そう上手くいくか? 他の連中が、それは違うって言ったら駄目になるだろ」
 羨ましいのでちゃちゃを入れる。

 話している内に、眠るお嬢さんがのんびり草を食んでいる金の羊に見えてきた。
 いまにも牙を立てられてしまいそうな羊の身を心から案じる。金の羊は気づいていない。隣で礼儀正しそうにしている黒の獣は、犬ではなく狼だ。

「人見知りが激しいからな。他の連中と話すことが稀だ。……しかも"落ちこぼれ"だ何だと、やかましく喚き立てる奴らを信じるわけがないだろう。例外は――お前くらいだ」
 真眼が危機を察知して、びりびりと痺れた。
 これは……まずい。
 恐る恐る視線を上げれば、やはり黒の瞳はじっと自分を見据えていた。
 喉が、ごくりと鳴る。
「もちろん協力してくれるよな?」
 ローグはいっそ妖艶とも言える笑顔で、極悪な言葉を投げてくる。
 涎を垂らした狼にがぶりとやられたのだと理解して、命乞いの代わりに何度も肯いた。

 死にたくない。
 まだこんなに若い。
 一度もいい思いをしたこともないし、恋人くらいは作って死にたい。

 必死の思いは、どうにか狼に伝わったようだ。返事に満足した様子のローグは「頼りにしている」とだけ言って、また彼女に向き直った。
 狼の背中から視線をべりっと剥がして、薬草へと落とす。

(女神よ、オレは何かしでかしたのでしょうか?)

 こっそり祈りを捧げ、己の不運をただ嘆いた。

● 面倒なやりとり


「いま……、何とおっしゃられましたか?」

 頓狂な声で問う男に、先ほど伝えたばかりの依頼を繰り返した。
「見繕って欲しいものがある。できるだけ急ぎたいが、品の選定はお前に任せる」
「見繕うというのは……、見立てるということでよろしゅうございますか」
 いつになく取り乱した風のコンラートは、酒瓶を持ったまま呆けている。手元のグラスが空になっているというのに、めずらしいこともある。
「そうだ。耳でもおかしくなったか」
 遠くなるほど老けているわけでもなかろう。
「旦那様。念のために確認いたしますが、これはいつもの依頼とは別件でございますね」
「ああ、他の荷とは分けておけ。支払いは一括で構わん」
「承知いたしました。……時に、旦那様。どのような品をご用意いたしましょう。見立てるお相手様によって、ご用意するべき品が違ってまいります」
 コンラートは机に並べていた品を仕舞い込み。後ろの棚からいくつかの装飾具を取り出し、卓に並べ出した。
 夢中になっている様子だが、こちらが空いていると仕草で伝える。ようやっと気がついたらしく酒がグラスへと注がれた。この男が担当に着いてから早数年。このように歓喜する様は稀だ。
「用途によっても、お勧めするべき品が大きく変わってまいります。例えば、目上の方への祝いでしたら、棚に飾るような品が喜ばれることでしょう。華寵家かちょうかでしたら、奥方様の趣味の品を揃えるのも手ではありますが……誤解されると厄介でございます」
「……知己に華寵家などおらん」
 そもそも目上と呼べる者は、数えるほどしかいない。
 その上、妻帯者は一人もいない。かつて師と呼んでいた男は、連れ合いを亡くして久しいはず。
 並べた品から、不適切であったらしいいくつかが取り払われる。心なしか笑みが深まったようにも見え、壮年の男のめずらしい様が浮き彫りとなる。

「ではどういった品をお求めで」
「首輪だ」
「はい?」

 グラスの中で酒を回す。酒がランプに照らされ、記憶をささやかに刺激した。
「犬を拾ってな。鼻が効いて役に立つが、野良ゆえ躾がなっておらぬ」
 何せ天水の癖に"暴走"を引き起こした。そのような話、過去に聞いた例がない。
「手間暇が必要なのは面倒だ。だが放っておけばさらに面倒になる。首輪を着けてやれば、少しはましになるやもと思ったのだが」
「左様でございますか……。必要でしたら世話人を手配をいたしますが」
「いらん。放し飼いにしている」
「首輪だけさせるので。犬は世話をしないと懐きません。躾となると夢のまた夢でございます」
 言われて、つと考えを巡らせた。
「そうやもな」
 噛み癖はないようだが、吠え癖は早めに直しておきたいところ。
 芸を仕込むとなるとまだまだ先になるか。……まったく手間暇のかかる。これで役に立たねばどうしてくれよう。
「どのような犬種で?」
「……さて」
「犬と言いましても様々でしょう。大型犬、小型犬。長毛種、短毛種と」
 酒を一口含む。焦げた樽の香りがほどよく漂い、常に感じている血臭を和らげていく。
「小型犬の長毛種だ」
「瞳と毛色はいかがでございます」
「瞳は琥珀、毛色は白金。……毛並みは悪くない」
「若い犬でしたら躾も楽です」
「年は知っている」
 十五だと伝えれてやれば、それは大変でしょうと眉を下げた。
「野良の老犬をお育てになるおつもりですか?」
「いや、まだまだ子犬の域を出ぬな」
 伝えたところでコンラートの表情が変わる。
「それはそれは……」

 実に抜け目のない男だ。
 察しがいいところがよくもあり悪くもある。詳細を伝えずともこちらの意を汲む。その使い勝手のよさは重宝するのだが……どうやら面倒な方に考えを巡らせたらしい。
「念のために伺います。雄ではございませんね?」
「ああ」
「――委細、承知いたしました。当店の名にかけて極上の一品をご覧にいれましょう」
 恭しく腰を折ったコンラートが天鵞絨の奥へと下がっていく。いつになく浮かれた様子ではあれど、任せておけば間違いなかろう。



 グラスを回し、香りを堪能する。
 次の任務までわずかに間が空いている。
 いましばらく、癖の強いこの琥珀の酒を愉しむとしようか。

● 内緒


 微睡みの中、鐘の音を聞いた。
 目覚めるのがもったいないと思えたので、ぬくぬくとした場所に潜る。
 低い振動が伝わってきて、自分がおかれている状況を思い出した。
「……起こしたか」
「ちょうど起きたところです」
 寝起きは声が出しにくい。自然、ささやき声となってしまい、まるで内緒話をしているようだと思った。

 ――そう、内緒。

 皆には絶対に内緒にしよう。
 こんなに恥ずかしくて幸福な時間を、伝えられるわけがない。
 ローグがあたたかいことも。起きたばかりの時は、瞳の力がゆるむことも。意外と寝相がいいことも。全部、自分だけが知っていればいい。
 誰にも教えてあげない。
「涼しい」
 彼が自分の頭を抱え込んで、満足そうに言った。また真力で涼をとっていたらしい。
 ローグはとても暑がりだ。
 夏用のローブや夜着がなければ、サガノトスの夏は越せないとまで言い切っている。
「暑くないか」
「いいえ」
「もともと体温が低いのか。サキは夏に強いんだな」
 低く笑ってから目を閉じたローグは、そのまま真眼を合わせてきた。
 熱い体温に触れる。
 胸にじわりと何かが沁みた。湧いた感覚を大切に確かめているうちに気がついた。海の真力がまだ戻ってきていないと。
「……だるさは抜けませんか」
 そうだなと応じたローグの額と、自分の額とを強く合わせた。
 覗き込んだ彼の世界の中は、とても閑散としている。際限がないように視えていた真力が、いずこかに消えてしまっているのだ。
「サキ……、気配が乱れてきたぞ」
「心配なのです」
「じきに治る。カルデスの男は丈夫だからな。俺も寝込んだことは一度しかない」
 ぬくい場所から彼を見上げた。
 そう言われると、そのたった"一度"が気になってくる。
「いつごろの話ですか?」
「三つの時に、船から落ちて溺れたことがある」

 物心がつく前だから、記憶は一切ないと彼は言う。
 親類の家からの帰路。船で帰る途中で、嵐に遭ったのだそうだ。嵐の時は、乗客だろうが船員だろうが、協力して事にあたるのがカルデス流。手伝いに出て行った父親を追いかけて、甲板に迷い出た幼いローグは。荒れ狂う海へと投げ出されてしまったらしい。
「落ちた時に引っ掛けた傷が、いまも残っている。……ほら、ここと。それからここだ」
 話しながら唐突に衣服をめくる。一瞬、視線が泳いでしまった。男性の衣服の下を見るのは、とてもはしたない。
 動揺して頬が熱くなりかける。しかし今回は途中で血が止まった。

 さらけ出された場所を見つめる。
 左腕の肘の辺りに引き攣れた跡。そして胸元の……丁度、心臓の辺りに大きな跡があった。

 ゆるめられた衣服の隙間から見えた傷跡は、負った傷の深さをいまだ物語っている。
「大丈夫だったのですか?」
「大丈夫だったからここにいる。と言っても、生死の境を彷徨ったらしいがな」
 嵐を抜け町に戻ったローグは、それから十日ほど熱に苦しめられたという。
 当時はまだ存命だった彼のお祖母さんが、毎日、毎日いろんな薬を求めてきて彼に飲ませていた。やんちゃ盛りだった兄達も、この時ばかりは神妙にしていた。
 彼の口から紡がれる過去の話は、自分には縁遠い話。ぬくもりを分け与えてもらっているようにも感じられ。低い響きの中、その幸せに酔う。
「……だが十日目の朝に突然熱が下がって、けろりと起きたんだと。前日に婆さんが飲ませた薬が効いたという話になって、その薬を親父が大量に仕入れてきてな。快気報告ついでに町中で宣伝したら、飛ぶように売れたらしいぞ」
 きょとんとした。
 少し前まで、あたたかい家族の絆の思い出だったのに。あっという間に商売の話となってしまった。ローグの商人気質も困ったものだ。
「薬はうちの定番商品になった。いまでも売上が落ちるたびに、もう一度寝込めと言われるんだ」
 勘弁して欲しいと愚痴り、くつくつ笑う。
 話の結末に呆れて――。
 でも、結局は楽しそうに笑い続ける彼につられ、一緒になって笑った。
「傷跡は真術で治せないのでしょうか」
 癒したい。
 とても自然に生まれた欲求は、残念なことに低い笑いに遮られる。
「女ならまだしも、男の傷跡など誰も気にしないさ」
 でもな……と。ローグが言葉を止めた。
 穏やかな黒の奥で、想いが明々と燃えている。そこから強い熱を感じ取り、息を吸い込んだ。
「サキは気をつけろ。癒しが使えるのだから、肌に傷跡を残さないようにな」
 喉の辺りで止まっていた血が、一気に駆け上ってきた。かっと熱を帯びた頬を指先で撫でられる。

 ああ、まただ。

 いつもいつも、急に態度を変えるから……とても追いつけない。
「ローグ」
 たしなめると、いっそう笑みを深めた。
「……もう傷がついていたとしたら、どうします?」
「傷はない」
 ちょっといじけてみようとしたのに、出鼻を挫かれた。やけに自信満々な答えだ。どこからそんな自信が? と訝しみ、上目遣いで確認する。
 ローグの顔は声と同じように自信に満ちていた。
 何か変だと真眼が騒ぐ。寝ぼけていた鋭敏な勘がよくない気配を察知して、さわさわと動き出した。
 彼の真意を探っていると、自信ありげな表情がいたずら小僧のそれへと変化した。
「傷はないが――」

 嫌な予感がする。

 そう思って身を固くした自分の背中に、いきなりの接触があった。
 つい情けない叫びを上げた。
 触れられたのは右の肩甲骨の下。いきなり指で突いてきたローグは、次に背骨の上を突いた。
「この二か所」
 意味不明な言葉を出す。
 くすぐったさに音を上げて抗議した。しかし抗議の言葉もどこ吹く風。いたずら小僧は、またもや違う場所を突いてきた。
 今度は、右の鎖骨の上。
 喉に最も近く、尖って出ている骨の上をとんと軽く突いた。
「あとはここだな。これ以外は何もなかった」
 頭上で疑問が踊っている。
 言葉の意味を考えて、考えて……あまりのことに跳ね起きた。

 心臓がばくばくといっている。
 全身の血が急激に流れて巡り、呼吸と思考を混乱の渦へと陥れる。

「だから言ったんだ」
 寝転がったままのローグは、勝ち誇ったように言う。
「無防備過ぎる。どうなっても知らないからな」
 両手できつく襟を絞る。
 言い返そうとしたが上手くいかず、ぱくぱくと口だけが動いた。
 最初の二か所はわからなかった。背中のすべてを見るのは不可能だ。だから自分でも知らなかった。
 でも最後に彼が突いた場所は、自分でも見ることができる。自分はそこに何があるのか知っている。知っている事実と、彼の不審な行動と言葉が繋がって、どうしようもないほどの巨大な羞恥を形成した。
「……は、破廉恥ですっ」
「警告はした。それに不埒な真似はしていない。賭けてもいい」
 悪びれる様子もなく言ってのけたローグは、ごろりと転がって頬杖をつく。
「泣いても怒っても遅い。もう見てしまった」
 サキの中で羞恥が極まり過ぎて、怒りへと変貌を遂げる。
「"忘却の陣"を覚えます!」
「無理だ。蠱惑の真術だからサキに向いていない」
「でも、絶対に覚えますからっ……!!」
 重ねて言えば、また笑う。
 今度は悪徳商人殿のお出ましだ。
「そうか。ならばそれまで、しっかりと覚えておくことにしよう」
 悪徳商人の黒い笑いを、ぎりぎりと睨みつける。

 何てことだ。
 娘としてあるまじき失態である。
 こんなこと誰にも言えない。ティピアにもユーリにも相談ができないではないか。
 恥ずかしさと悔しさにうち震える両手で、きっちりと襟元を合わせ続けた。



 ――その夜。
 美白粉をほくろに擦り込むサキの姿を、鏡だけがそっと見守っていた。

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