蒼天のかけら 第四章 罪業の糸
鏡越しの憂鬱
鏡越しに、自分の情けない顔を見る。
今日は何度も同じことを繰り返している。どうしても止められない。
髪を直しているわけではないし、ましてや化粧をしているわけでもない。
人差指で目尻をさする。ここがもう少し上向いていたら、大人っぽく見えるかもと期待を寄せた。しばらく眺めて、やはり自分には合わないと、引っ張っていた皮膚を元に戻す。
思わず頬を両手で包み、大きな大きなため息を吐いた。
部屋の隅にいたジュジュが、盛大な溜息を聞きつけ。心配して足元にすり寄ってくる。
「ジュジュ。どうしてわたしはこうなのでしょうね……」
あまりに平凡。
髪の色は、めずらしくもない金。もしイクサのように輝かしい金であれば、ここまで悩まなかっただろう。光をきらきらと弾いてくれることもない。印象に残らない薄い金の髪を、恨めしげに眺める。
せめて瞳の色だけでも、誰もが憧れる藍色ならとも思うが、掠りもしていない琥珀色だ。琥珀の瞳など、どの物語を探してみても、褒めそやす文章を見つけることはできないはず。英雄が求める美女は、必ず藍色の瞳と決まっている。
どこをどう眺めても、美点と呼べるような個所はない。
せいぜい誰にも嫉妬のしようがない、大人しい顔つきとしか思えない。今日は何度もその事実を確認している。そしてそのたびに、大きな溜息を吐いてしまうのだ。
普段なら、髪型を整えるためだけしか開かない鏡の前で。一人鬱々と座り込んでいた。
窓の外には日に照らされた大地が、燦々と輝いている。
いい季節だ。
春が終わりを告げ。夏へ向かうまでの過ごしやすい時期。明るい日差しと、やさしく涼しい風の恵みは、こうして部屋の中に座り込んでいても十分に感じられた。
はあ……。
また一つ大きな溜息を漏らす。足元でジュジュが困ったような鳴き声を上げる。
昼の支度はとっくに済んでいた。後は、あたためるだけの状態にしてある。いつ、帰ってきても大丈夫なように……。
そして自分の思考に動転する。今日、ずっと避けていた事柄に、つい自分で触れてしまった。最近は日に当たることも増え、少しだけ健康的になってきた白い肌を、羞恥の赤が染めていく。
帰ってくる。もうすぐ、彼が――。
座学が終わってから、自分だけ先に帰ってきた。彼は最近できたばかりの数少ない友人達と、学舎の近くにある喫茶室にいる。
そのめずらしい事実は、一人大慌てしてじたばたと足掻いている自分を、落ち着かせるための行動だろう。彼の考え方は、よくわかっている。この一月でわかるようになってきているのだから。
鼓動が、高鳴りはじめる。
もう駄目だ。
意識しないようにしてきたのに、考え出したら止まらない。
すらりとした体躯と、人の目を惹き付けて止まない端整な顔立ち。鮮やかな漆黒の髪と、あまりにも真っ直ぐな強い眼差し。吸い込まれそうなほど深い黒の瞳。
真導士として共に有るよう定められた、自分の相棒――ローグレスト。
彼が帰ってくる。
ローグがもうすぐ帰ってくる。自分に何かを告げるため、この家に帰ってきてしまうのだ。
どくどくと音を立てて流れる、自分の血潮。流れに翻弄され、思考が溶かされていく。身の内には、逃げたいと叫びを上げている臆病な自分がいる。
けれども、それは不可能だ。彼から逃げ切ることはできないだろう。そもそも自分は、もう彼から離れられない。
無理に決まっている。
この穏やかな日々を、一度でも知ってしまったからには。あの激しくもあたたかく。すべてから守ってくれるような彼の熱に、触れてしまったからには……。
(女神さま、お許しください)
何て大それた恵みなのだろう。
ここまでの僥倖を、この平凡な自分が、どうして手にしてしまったのだろうか。
いつかきっと罰が下される。
自分をここまで追い詰めるすべての発端は、初仕事があった過日の彼の言葉だ。
思い出すだけで、首筋に粟立ちを覚えてしまう。あの時、耳に直接注がれた、甘く低い声。いたずらだと切り捨てられない、色艶めいたあの声音と、何かを隠しながら伝えてきていた、悩ましい台詞。
自分がもっと気配に鈍かったのなら、それに気づくこともなかっただろうに。
あの日、完全に混乱してしまった自分は、家に帰ってから至極あっさりと追加規則を破ってしまった。
破ったどころか、態勢をそのまま立て直せもせずに。もう一巡りしてしまいそうなところまで、加算されている。
十点満点で、何か一つ相手の頼みを聞く。新たに設けられた二人の規則。その最初の権利を手にしたのは、ローグだった。彼は、長身の友人から贈られた、大好物の白い果実を味わいつつ。ひとしきり、権利の使い道を考えていた。
そして今朝、結論を出したのだ。
時間をもらいたいと。
決して逃げずに。そして絶対に否定せずに、最後まで話を聞くという二人だけの時間。今日、昼食をとった後に、その時間を設けて欲しいと言ってきた。
約束の刻限は、もう少しでやってきてしまう。手の平に、じわりと汗が浮いた。
彼が何を話すのか。その詳細は不明。けれど、さっぱりわからないとは言えないのだ。自分はもう、子供の時間を終えている。
どうして……?
ただ、それだけだ。
自分のどこが彼を惹きつけたのだろうか。迷惑ではないかと案じてしまうほど、ひたすら守られていただけだ。
容姿だって優れている個所がない。人の目を惹くようなものなど、何一つも持っていないというのに。
目の前にいる、覇気の薄い自分と見つめ合う。
ローグとあまりに不釣り合いな自分。相棒として相応しくなろうと努力はしている。少しずつ道を歩みはじめているとは思うが、まだまだ相応しいとまでは言えないだろう。
それなのにどうして、彼は自分を選ぼうとするのか。疑問と恥じらいが、ぐるぐると自分の中で渦を巻いている。
今日一番の溜息を吐いた時、居間から音が聞こえた。思わず肩が大きく跳ね上がる。この家は真術で構築されている家だ。扉を開ける人物は、自分を除いてもう一人だけ。
「ただいま」
扉越しに自室まで届いた、帰宅を告げる低い声。
――ローグの、声。
心臓はいまにも破裂しそうなほど、踊り狂っている。
運命の時は、すぐそこまでやってきていた。