蒼天のかけら  第五章  邂逅の歯車


真導士の苦悩


(うわあ……、最悪だ)

 あまりにも劣悪な空気となった拠点。その片隅で長い背中を丸めてつつ、内心だけで愚痴を言った。
 初の実習で、まさかこんな体験をするなんて。頼れる相棒がいれば、叱咤でもしてもらえたかもしれないけど。今日に限っていないとは何とも運がない。

 暴風が吹き荒れた後の拠点は、凄惨たる状態となっている。
 バト高士という怖いお兄さんは、高士の皆様の矜持をずたずたにして行ってしまった。特にセルゲイ高士の矜持は、引き裂かれた挙句にこれでもかと踏みつけられ再起不能の状態だ。発作でも起こしているのではと思える震えが、男の心理状態をしっかり伝えてきている。
 ジーノ高士はまだ平気そうだけれど、フィオラ高士の憤りも相当なものだ。件の高士が出て行ってからこっち、飽きもせず怒りを発散させている。大人の余裕を持った美人なお姉さんだと思っていたのに、何とも残念な気分になってしまう。
 アナベル高士は俯きながらも、ほっとしている様子だ。気が弱そうな人だから、全部の支配権を持っていったあの高士に救われたのかもな。責任を負わされるのが苦手なのだと、意味もなく推察した。
 そんな風に、大きな爪痕を残していった怖いお兄さんだったが。
 罵倒もせずに一人の導士を叩きのめしたことは、さすがに気づいていないことだろう。

 横目で黒髪の友人の様子を窺う。
 窺った拍子に、弱り切った顔でローグを見ているジェダスと、つい目が合ってしまった。
(やっぱり、あれはきついよなあ……)
 ついさっきまで激昂しながら覇気を漲らせていた友人は、壁沿いに座り込みつつ頭を抱え。孤独に俯いている。
 あまりの落ち込みように、とても声をかけられない。
 怖いお兄さんにサキちゃんを連れ去られてからというもの、ずっとこの調子だ。無言のまま落ち込んでいるから、何の話もしていないけど。いま考えていることなら手に取るようにわかる。
(さあて、どうしたもんかな……)
 サキちゃんが出て行ってしまった時のこいつの顔は、一生忘れないだろう。茫然としたというか。愕然としたというか……あんまりお目に掛りたくない類の表情をしていた。
 正直、慰める言葉すら思いつかない。
 誰の目にも触れないよう自分の懐に隠して、大事に大事にしていた宝を。物取りにかっさらわれた気分なんだろう。普段のこいつなら、追いかけていって奪い返すくらいはするだろうが、どうにも相手と状況が悪過ぎる。
 女神は何という試練を友に与えてくれたのか。
 日頃の行いがそこまで悪かったのかと、いらぬ心配すら浮かんでくる。
 二人があんな喧嘩をすると思ってもみなかった。それから、サキちゃんがあそこまで激しい感情を見せるなど、想像もしていなかった。あの激情は怒りではなく悲しみだ。
 ローグの怒りは彼女の心を、深く、深く抉ってしまったのだろう。
 自身の怒りでサキちゃんを傷つけたと知ったローグは、それだけでもかなり後悔して落ち込んでいた。そんな時に、他の男が颯爽とあらわれ。さらには想いを向けている娘を、目の前から持っていったとあっては……。
 ローグが抱えている傷口には、とても手の施しようがない。世の中には時の薬というものが存在するという。いつかきっと傷も癒えるだろうと、根拠もなくそう思い込んでみることにした。
 無理なものは無理だ。風向きが変わることもあるかもしれないし。……うん、そうしよう。

 考えた挙句、暇を持て余してみたものの。
 いまのところ何もできない導士の身なので。仕方なく、フィオラ高士の憤りを観察することにした。
「あの男、本当に許せない! 毎度毎度、どうしてここまで人を馬鹿にできるのかしら」
「諦めろフィオラ。我々ではどうしようもない」
 ジーノ高士も笑ってはいても、含むところはあるのだろう。少し険の入った様子が窺える。
「いくら庇護があるからって、やりたい放題やってくれるわよね。私達は同じ高士なのに、あそこまで態度が大きいなんて!」
「フィオラ、余計なことを言い過ぎるなよ」
「わかっているわよ。でもこれくらいじゃ懲罰にはならないでしょう。本当のことを言っているだけだし、皆知っていることじゃない。あの男を偏重するシュタイン慧師の考えが、わたしには理解できないのよ」
 形のいい口から気になる言葉が飛び出してきた。
 怖いお兄さんは、シュタイン慧師から贔屓されてるってことかな。
「……それは、どういうことで? あの男はシュタイン慧師と関わりがあるのですか」
 ずっと怒りで震えていたセルゲイ高士が、押し殺した声のままお姉さんに問い掛けた。
 あの目は、まずい……。
 泥酔したような淀んだ色をしている。鎮静剤を持ってくるべきたったと、小さく後悔した。
 セルゲイ高士の、おかしな様子に気づいていないわけはないだろうに。自分の憤りが先に立ってしまっているお姉さんは、勢いのまま怒りに油を足すような発言をしてくれた。
「あの男はね、シュタイン慧師の右腕だと言われているの。もともと同期で、力も拮抗していたからとか聞いたけれど。慧師からの信と庇護が厚くて、本来なら高士では持てないような特権を有している。そのせいもあって誰もあの男を批判できないのよ……」
 特権、ね。
 まあセルゲイ高士が好きそうなお言葉ですこと。
「だがバト高士の実力も確か。望んで高士の地位にいるが、本人が希望すれば正師にも令師にもなれるくらいだ。……人嫌いで有名だから、正師も令師も向いていないとは思うがね」
「そうそう、それもよ! 何度も顔を合わせているのに、私達の名前を覚えようともしないのよ。まったく失礼な男だわ」
「人の名前を覚えないのでも有名だからな、あの御仁は」
「自分以外に興味がないなんて、自己愛主義にもほどがあるわ。……あら、そういえば。何で導士の名前なんて知っていたのかしら?」
 美人なお姉さん高士は、憤りの気配を収めて。絶対に言って欲しくなかった疑問を口にする。
 隣で黒髪が、びくりとゆれたのが見えてしまった。
「さてね……。確かに不自然ではあるが、彼については何も聞けないから追求しようがない」
「でも、おかしいわよ。二人ともお互いを知っている様子だったし。私達だって導士の名前なんて報告していなかったじゃない」
「やめておけ、それ以上の詮索は本当に洒落にならない」
 ジーノの言葉で、ようやくフィオラも口を閉じた。怖いお兄さんは、高士達の間でかなり際物扱いされているらしい。
 そんなお兄さんと、どうやって知り合ったのか? 儚い印象を持つ友人への疑問が、少しずつ深くなる。ついでに言えば、落ち込んでいる隣の友人の苦悩も深くなっていく。
 しんとなってしまった拠点に、遠くから二つの足音が近づいてきた。
「戻ってきたわね。……私、この気配も苦手なのよ」
 心底嫌そうな顔をして首を振るお姉さんを、慌てて相棒が制した。
「もうやめろ。何も言うな……」

 扉を開けて入ってきた、怖いお兄さんとサキちゃんに注目が集まる。
 人に見られることが苦手だと言っていた友人が、小さく身を竦ませて。怖いお兄さんの背中に隠れるのが見えた。
 ローグが俯いててくれてよかったと、変なことでほっとした情けないオレがここにいる。

 怖いお兄さんは入ってきて早々に、高士の皆様に対して「出て行け」と指示を出した。
「必要があればこちらから声を掛ける。せいぜい大人しくしていろ」
 暗に余計なことはするなと言っているのはわかる。ただ、さすがに誰も何も言わなかった。
 腹に据え兼ねていても、従うしかないということかな。
 ……本当に、怖いお兄さんだ。
 入ってきただけでこう、何とも言い難い寒さを感じてしまう。
 真力の量も尋常ではないと感じられるし、裏で色々あろうがなかろうが、本能的に逆らいたくない人種だ。そんな人物が、高士の皆様が出て行ったのを確認して、盛大な舌打ちをしてくれたものだから堪らない。状況に耐えられないだろう小さなティピアちゃんが案じられる。
 大丈夫では、……ないだろうな。

「立て」
 唐突で短い命令が下され、大慌てで立ち上がる。
 真導士から兵士になった気分だ。
 怖いお兄さんは、壁際に張りつきながら起立している八人の導士を見渡し。そして傍らに立つサキちゃんに視線を移した。
「これで全部か」
 さっきよりも数段穏やかな声音だった。思わず目を見張る。
 ローグじゃなくても気になってしまうな、これは。
「はい、彼……ヤクスさんは今日一人で参加しているので。もう一人の方は、ご実家に帰省しているらしく実習には来ていないのです」
 サキちゃんの声は普段通りだ。
 そしてそれは非常にまずい。何しろ彼女は結構な人見知り。徐々に治ってきてはいるが、まだまだ知らない人は苦手だと、本人がそう言っていた。
「バトさん。わたし達これから何をすればいいのでしょう?」
 続けて出た友人の台詞に、ぎくりとした。
 高士相手には尊称をつけないとまずい。真導士は階級が明確に分かれていると、彼女が知らないはずはないだろうに……。
 サキちゃんに向かって罵声でも飛び出るのではないかと、内心はらはらしてしまう。しかし自分の心配を他所に、怖いお兄さんは何のてらいもなく質問に答えた。
「まだ何もしなくていい。襲撃の際に怪我を負っている者がいれば、いまのうちに癒しておけ。気力と真力を整えるのが先だ」
「はい」

 礼義正しい返事を聞いたお兄さんは、入口付近にある椅子に向かって歩いていき、そこに腰を下ろした。
 その姿を確認し、こちらを振り返ったサキちゃん。彼女は、立ち尽くしている同期の様子を不思議そうに眺めて、こう言った。
「皆さん、休憩しないのですか?」
 何でだろうと首を傾げている友人の姿に、腰が砕けそうになってしまう。
「……いや、いいのかなって思ってさ」
 ついつい小声で答えてみれば、ますます不思議そうな表情になった。
「バトさんが、いいって言ってますから。疲れてしまいますので座った方がいいですよ」
 言っても座る様子を見せない一同を、困ったように見渡して……とある一点で動きを止めた。
「ティピアさん、どうしたのですか?」
 慌てた声につられて見てみれば、すっかり怯えきったティピアちゃんが、蒼白な顔のまま涙を流していた。
 ああ、かわいそうに。ずっと怖かったんだろうな。
 サキちゃんは急いで小さな友人に駆け寄り。ほそほそと話すか細い声を聞き、困ったように眉をひそめた。そして、困った表情のまま入口にいる怖いお兄さんに向かって、とんでもないことを言い出してくれた。
「バトさん、真力を抑えていただけませんか」
 ジェダスが奇妙な姿勢のまま、硬直したのが見えた。自分も思わず喉を鳴らしてしまう。
 そんなこと言って大丈夫なのか……?

 怖いお兄さんは、実に怖い顔でサキちゃんに問い返した。
「何故だ」
「その……、バトさんの真力が強過ぎて、ティピアさんが怯えてしまっています。これでは休めません」
(サ、サキちゃん!)
 彼女には恐れという感情がないのだろうか。
 今度こそ、さすがにまずい。
 罵声とともに真術すら飛んできてしまうに違いない。そうなったらとにかくお嬢さん方をかばわないと。"守護の陣"なんて使えないから、この身体で盾になるか。
 ああ……短い人生だった。畜生、オレも恋人くらい作ってみたかった。
 一人心の内で、悲嘆に暮れていたというのに、自分達はあまりに予想外の事態を体験することになる。
 怖いお兄さんが――高士ですら口答えできないような人物が、寒気のする真力をそっと抑えたのだ。

(う、嘘だろう!?)

 内心の叫びは誰にも聞こえることなどなく。もちろん願いを聞いてもらえて、にこにこしている友人に届くはずもなく。ただただ頭の中で虚しく反響していった。
 おかしい。これは絶対におかしい。
 ローグを慰めようと、密かに掻き集めていた反証の材料を、一気に手放した。
 一体どういう関係なのか予想がつかないけれど。親しいと表現するのが適切な現状が、目の前に横たわっている。

 ティピアちゃんに意識が集中している彼女は。自分に想いを寄せている相棒の心境など、考える余裕がないのだろう。小さな友人に向かって安心させるように微笑んでから、またもやとんでもないことを言ってのけた。
「大丈夫ですよ、ティピアさん。バトさんは怖い人ではありますが、悪い人ではありませんから」
 ずっと黙って立っていた黒髪の友人は、どこか遠い目をしたまま、ついに天を仰いだ。お兄さんと彼女の間にある繋がりを、確信するには十分な一言だ。これはもう否定なんてできやしない。
 唖然とした自分達の耳に、遠くから呆れ切ったような声が届いてきた。

「おい……。お前は本当に、どういう神経をしているのだ?」
 怖いお兄さんに言われて、しまったという顔になる。焦りの表情を浮かべた彼女は、両手で頬を包んで熟れたように顔を赤らめた。
 赤い顔を見て。この場では決して言えない言葉を、胸の内だけで彼女に伝える。

 お願いだから、これ以上は追い詰めないであげてよ……ねえ、サキちゃん?

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