蒼天のかけら  第六章  倉皇の迷宮


消えない悪夢


 樹木の合間から見えていた蒼天は、残酷なほど紅く染め変えられていた。
 サキはただ独り立ちつくしている。
 頼れる者はなく、その身を守る術もない
 遠くに見える紅の合間に、闇色の大きな影がゆらりと揺れている。
 耳が痛い。
 悲鳴のような耳鳴りが響き、頭を締め上げていく。
 紅い空は見ているだけで悲しい気持ちになるのに、どうしても目が離せない。

 逃げなくては

 どこまでも走って

 隠れて

 決して見つかってはいけない

 見つかったらきっと、きっと――あれに……



 耳に絶叫が聞こえてきた。
 遠くから流れてきていると思えた叫びが、自分の口から迸っているのだとわかるまで、相当な時間がかかってしまった。
 夢だ。
 馴染み深いただの悪夢だと、意識に刷り込み衝動を抑え込む。
 衝動を抑えようとして、口を押さえ叫びを止める。自分の腹部がごそりと動き、思わず総毛立ってしまった。しかし、毛布から飛び出したジュジュの頭を見て、緊張をゆるんだ。
 別の生き物が、内部で蠢いているかのように心臓が踊り狂っていた。
 気力を整えようと息を吸ってみても。ひくひくと痙攣している喉で止まって、大気が肺まで流れていってくれない。

「サキ、どうかしたか?」

 扉の外から低い声がする。
 ああ、起こしてしまったのだろうか。まだ日が昇っていないというのに。
 大丈夫ですと返事をしたいけれど、声が出せそうにもない。叫びで喉を潰したのではと馬鹿なことを心配したが、自分で口を塞いでいるだけだった。
 頭では理解できているというのに、どうしたことだろう。手を口から引き剥がすことできないのだ。
 寝床の上で、氷漬けになっていれば「入るぞ」と宣言が聞こえてきた。扉が開いたのを見たジュジュが、大慌てで走っていく。主の異常を訴えようと、同居人の足元までまとわりつきに行ったようだ。
 視界の中で起こっていることは、分析すらできるというのに。やはり自分の身体は動かないままであった。
 熱い海の気配と共に、静かな足音が響いてくる。傍で止まった足音。足音の主が、寝床の脇机に置いていたショールをかけてくれた。
「大丈夫か……」
 周囲に彼の真力が解き放たれた。穏やかな熱い波によって緊張をほどけ。強張りが少しずつゆるんでいく。
 熱の高い両手が、口を塞いでいる手を包み。そっと労わってくれた。
「悪いな。約束を破ってしまった」
 許可なく部屋に入ったことへの謝罪だろうか。自分の身を心配してくれたがゆえの行為なので、責める気持ちなど微塵も持っていなかった。
 謝らないで欲しいと伝えたいのに。頑固なまでに動かない唇は、いまだ言葉を生み出してくれない。呪われた唇の代わりにと。石のように固まっていた指が動き、骨ばった手を握る。
 ぬくもりが必要だった。彼の熱に触れていないと、氷の彫刻になってしまうと信じられるほど寒かった。
 季節は夏に向かっている。それなのに、毛布ではかばいきれないほどの寒さに全身が震えた。熱い海の気配が自分を包んでいる。けれど、どうにも間に合いそうにもない。
 気配に乗った、自分の思考を読んだのだろうか。
 低い声が耳元で囁く。
「おいで」
 導かれるまま、彼の胸元に身体を寄せた。無理に動かした身体は。どこかでひび割れているのではと、案じられるほどぎこちない。ぎこちないながらも、勝手に腕が伸びて、見慣れない藍色の麻布をつかんだ。使いこまれた彼の夜着を、命綱に見立てて必死になって握る。
 ローグは自分が夜着を握ってから、肩と膝裏に両腕を滑り込ませた。お腹にジュジュが乗ったのを確認して、横抱きのまま居間へと向かう。
 連れられて行った居間は、ランプが点いていないため薄暗かった。自室よりも低い温度を感じて身震いをする。
 窓掛けの隙間から、弱い光が漏れているのが見えた。家の外では、夜がようやく終わろうとしているらしい。
 食卓のところでローグが一瞬立ち止まり、言霊でランプを灯した。
 橙に染まった視界に安堵して、また少し緊張をゆるめる。
 自分とジュジュを長椅子に下ろしたローグは、すぐに戻ると言って炊事場に急ぐ。言った通りすぐに戻ってきた彼は、手に水の入ったグラスを持っていた。
「飲めるか」
 ローグに手渡されたグラスを、震えながら傾けて水を飲む。
 口に注がれた冷たい水は、動きを止めていた喉を通過し。自分の感覚を呼び起こすように、隅々まで駆け抜けていく。
「ありがとう……」
 言葉が帰ってきた。
 しゃべることを思い出した身体は、同時に自由を取り戻したようである。水に癒されて、微笑みを浮かべた。すると、黒い瞳が感情の炎を激しく燃やした。
 炎に見惚れて茫となる。しばらくして骨ばった熱い手が、流れていた涙の跡を拭うように動いた。
 いつの間に泣いていたのか。
 いままであの悪夢で、涙を流したことなど一度もなかった。
「魘されていたのか」
 自分は、本当に泣き虫になったようだ。里に来てからというもの感情の起伏が激しくなっていて、とても困ってしまう。
「はい、起こしてしまいましたよね。大騒ぎしてごめんなさい」
 デコピン覚悟で謝れば、苦笑されてしまった。
「気にしなくていい。昨日の実習が響いたのだろうか……」
 昨日の早朝に終えた、波乱に満ちた実習。十五の娘にとっては酷だったに違いない。ローグはそのように考えているようだ。
「違うのです。……たまに怖い夢を見ることがあって。最近は見ていなかったので油断してしまいました」
 夢と、低い声が復唱した。夢で魘されるなど子供のようで気恥ずかしい。
 しかし安眠を妨害してしまった手前、黙っておくことはできないだろう。
「前からよく見る夢で。いつもなら騒ぐことはありません。どうも、気力が整っていなかったようで……」
「どのような夢だ」
 からかうでもなく。笑うでもなく。強い意志を宿した黒の瞳が、自分の心を覗き込んでくる。
 奥で燃え盛っている炎を見て……口を開いた。
「……全部、燃えてしまう夢」
 そう、全部。
 何もかもが忌まわしい紅に飲み込まれ、食べ尽くされてしまう夢。
 逃げても、逃げても。どこまでも追いかけられる、そんな悪夢。
「怖かった」
 ぽろりと口から滑り出した言葉は、自分でも驚くくらいの幼さだった。
 黒が細められて、左の頬に手が当てられる。
「もう、大丈夫だ」
 森での出会いを彷彿とさせる確かなぬくもり。あたたかさが沁みて、痛くて――うれしい。
 ローグは自分が落ち着くまで、ずっと傍にいてくれた。
 当初よりかなり図々しくなった自分は、ローグのやさしさに甘えようと決めた。真力と気力を整えるのに必要なのですと女神に懺悔しつつ、彼の腕の中でぬくぬくとあたたまる。
 自分には肌寒さすら感じる朝の大気でも、彼にとっては大したことがない様子。袖無しの夜着一枚をまとって、腰帯を巻いただけの格好をしている。はいているズボンの生地も、夏用だとしか思えないくらい薄い。
 それで、ここまで熱を保てているのはどうしてだろう。自室から引き連れてきた毛布よりも、ローグの方がよっぽどあたたかい。
 肩に回ってきた左腕をじっと観察する。
 血管が自分と比べて太いように思う。血を運ぶ力が違うせいだろうかと、彼を置き去りにしたまま仮説を作ってみた。
 されるがまま。腕の自由を奪われているローグから、笑いがこぼれてくる。
 以前、本を読んでいる時も、似たような笑いをしていたことがある。その時は、猫にじゃれつかれている気分だと言っていた。何となく面白くなくなって、左腕に自由をお返しした。
 例えるなら動物ではなく、花姫か精霊にしてもらいたいものだ。……似合わないとは思うが、一度くらいは言われてみたい。
 自分が、つむじを曲げたのを察知したらしい。一枚上手な悪徳商人殿は、視点をさらりと変えてしまった。
「そろそろ夜が明ける。今夜は早く寝ることにして、このまま起きてしまおう。休みは有効に使わないとな」
 今日から二日間は特別休暇。なので、学舎に急ぐ必要がない。休みの初日に二人して早起きしたのだからと、時間の使い道をあれこれ考えてみる。
 起きたばかりでもあるし、朝食の時間にはまだ早い。
 ぬくもりながら時を過ごすのもいいけれど、それは少しもったいない気がした。
「サキ、散歩にでも行ってみるか」
「散歩ですか?」
「ああ。まだ里の中を回り切っていないだろう。まだ、行っていない場所を散策してみよう」
 言われてみれば。
 二人ともあまり外出をしない方だ。
 ローグは最近になって友人達の家や、喫茶室に出かけることも多くなった。それでも学舎近辺と居住区から外れてはいない。後はせいぜい聖都に下りるくらい。真導士の里をきちんと回ったことはなかった。
 家に近い修行場には、顔を出したこともあったけれど。長くいれば、いざこざが起きそうな雰囲気があった。早々に退散してきて以来、近づくこともしていない。
 夏には泳げるという湖も、行く機会に恵まれないままであったのを思い出す。
「では、湖を見てみたいです。ティピアさんが、とてもきれいだったと言っていましたので」
 決まりだと彼が言い、いそいそと立ち上がりそれぞれの自室に戻る。
 ローグは自室へと戻る前に、窓掛けを上げた。天気の確認は、彼が一日をはじめる定番の儀式になりつつある。
 外を確認したローグから、めずらしいと声が上がる。つい気になって、後ろを振り返った。

「霧だ……」

 一瞬だけ。
 甲高い音が耳に響いたように思えた。気のせいだろうか。いまはもう、何の音もしない。
 悪夢のせいで気が高ぶっているのだろう。
 早く外に出たいと胸が弾んでいたのもあって、さして気に留めることはなく。そのまま居間を後にした。

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