蒼天のかけら  第六章  倉皇の迷宮


共に


 今日の外出は、ジュジュも連れていける。
 置いていかれると大慌てで駆け寄ってきた獣は、予想に反して外に出られたのでひどく驚いていた。
 出てきてはみたものの。本当にいいのかと困惑して鳴くジュジュに、二人して笑ってしまった。
 しゃがんで目線を合わせ、ちゃんとついてくるようにと言い聞かせる。頭のいいジュジュは、それだけで理解してくれた。かわいい声で一つ鳴いたのを確認して、立ち上がる。
 立ち上がった自分の目の前に、ローグの手が差し出された。

「行こうか」

 朝日に照らされながら笑うローグを見る。胸の奥に控えていた恋心が疼き出すのがわかった。
 自分達の関係は、答えを返した時点で明確なものに変化している。
 意を決して、彼の手に自分の手を重ねた。
 大きさも温度もまったく違う、二人の手……。共に在り、共に行くのだと決めた二人の証明。
 あたたかい手に包まれながら、ひっそりと静まり返っている道を歩く。誰にも見られていないと知りながらも、耳が焼けるように熱い。
 大切な相棒は、大切な恋人にもなった。
 贅沢な自分が手にした最初の宝物を、しっかりと握りしめる。
 一年で一番騒がしく。一番暑い季節は、もう目の前にまでやってきていた。



 林の道を抜けて、目に入ってきた光景に歓声を上げた。
「ローグ、見てください。海とは色が違います」
 青白い湖の色を見て、ものめずらしさを抑えられない。
 朝焼けに輝くサガノトスの湖は、思った以上に大きくて広い。海のように果てが見えないということはないけれど。泳いで渡るのは不可能だと思えるほど遠くに、向こう岸が存在している。
 もっと近くで見たくて、自分に歩幅を合わせてくれていたローグを急かす。道を歩いていた時とは逆に、彼を引き連れながら下り坂を行く。辿りついた岸で、二人並んで湖に見入った。
「不思議ですね……。同じ水なのに、どうしてここまで色が違うのでしょう」
 腰を屈めて水を掬ってみる。自分の手に収めてしまえば、色が見えなくなってしまう透明な水を見つめて、答えを探す。昔から不思議だったのだ。水は透明なのに、どうして絵本に描かれている水は、全部青で塗られているのか。試しに川の水に、白い布を浸してみたことがあった。しかし、濡れそぼっただけで、きれいな青が移ってはくれなかった。
 長年の疑問を口にすれば、面白いことを考えるなと感心されてしまった。
「水には確かに色がついているらしい。ただ、染料のようにはっきりしたものではない。湖の色も。海の色も。大半は下にある大地の色を映しているものだ」
「水の下にも、大地があるのですか?」
 たくさんの青の下に、大地があるというのか。
 でも、大地の色であるならば、茶色になってしまうのではないだろうか?
「茶色の湖もあるし、真っ白な湖もある。まだ見たことはないが、緑も赤もあるらしい。海も島によって色が変わる。珊瑚の島なら白い砂浜と明るい青をしているし、火山の島なら灰の砂と黒い青をしている」
 女神が創りたもうた世界は……自分の想像を、遥かに超えた色彩に満ちているらしい。
「すごい……」
 何て大きくて。何て素晴らしいのだろう。
 安穏とした小さな村にいる時は、知ることすら叶わなかった世界の姿。世界は――こんなにも美しかったのだ。
「見て、みたいですね……」
 叶うならば、自分が持つ両の目で見てみたい。
 美しい光景に広がる大気に、身体を浸してみたい。どのような心地がするだろうか。どのような気持ちを持つことができるだろうか。
 サガノトスですら、たくさんの色に満ちているというのに。色に埋もれて、目が回ってしまうかもしれない。
「見に行ってみるか」
 ダールに下りようか。とでも提案するかのような口調で、ローグが言った。
「二人で行ってみようか」
 戸惑う自分を、穏やかに見つめる黒の瞳。
「どこでも行けるさ。導士の修業が終われば、俺達は高士になれる。高士にさえなってしまえば、振り分けられる任務をこなしているだけで、真導士の義務を果たすことになる。任務がない時は、どこにいても、何をしていてもいいんだ。時間はいくらでも作れるだろう」
 どこにでも行ける。
 そんな事実、自分には存在していなかった。
 村長に言われて聖都ダールに出てきた。帰るなと言われたから帰らなかった。真導士になったから、真導士の里に来た。
 用事や任務で外に出ることはあるけれど、導士の身だから必ず里に帰ってきている。
 そこに自分の意思は介在していない。言われたからやっているだけだ。言われなければ、何をしていいかわからないから、それを指図してもらっているだけだ。
 羞恥を感じているわけではないのに、頬が熱くなってきた。
 また知らない感情が、胸の奥に生まれてきてしまった。

 ああ、名前をつけてあげられない。
 この気持ちは何という名前なのだろう。

「どう行けばいいのでしょう……」
 まず、何からすればいいのだろうか。誰かの許可を、得なければいけないようにも思う。
「行き方など何とでもなる。わからなければ人に聞いてみればいいだけだ。間違ったら引き返せばいいし。間違った先が気に入れば、しばらくそこにいるのも有りだ。二人で相談して決めていこう」
 簡単だろうと、笑うローグ。
 初夏の色を含んだ風が、ざっと二人の間を走っていった。風に乗って、彼の真力が自分を撫でていく。
 どこまでも、どこまでも……果てしなく広がる、ローグの世界。
 狭くてちっぽけだった自分の世界が、彼の世界と混ざってぐんぐんと広がっていく。
「連れて行ってくれますか」
「もちろん。共にと言ったのはサキだ。どちらを欠いても番にならない。……置いていく気なんてないからな」
 はっきりしてきた自分の輪郭に、色が加わった。
「それとも、俺を置いていく気だったのか?」
 許さないぞと言う彼に、笑いがこみ上げてくる。
「置いていっても、すぐに追いつかれてしまいそうです」
「当たり前だ、サキの気配なら覚えたからな。どこにいても見つけられる」
 自信満々な相棒の近くに、ふわりと舞い戻る。
「なら、迷子になっても安心です」
 自分の中にある最初の日。
 村長にどこから来たと問われて、答えられずに首を振った虚しい思い出。
 親の名前を聞かれて首を振り。知っている人の名前を問われても首を振った、孤独な記憶。
 何の繋がりも持たない自分を心配する必要はなくなった。彼が迎えに来てくれると言うのだから……もう、大丈夫だ。
 ローグの横に立ち、解いていた手を繋ぎなおす。世界と自分を繋ぎ留めてくれる手は、やはりとてもあたたかい。

「だからといって、あまりふらふらと遊びに行くな。……サキは面倒事に巻き込まれやすい上に、妙な虫を惹き付けることがあるからな」
 あたたかさに油断していたら、話が奇妙に傾こうとしている。
 面倒事については、諸々と思い当たる節もあるのだが、妙な虫とは……?
 黒の瞳は、自分を見つめたまま動かない。気配を辿っているようだが、何を知ろうとしているのか。見つめ合いをしていたら、ローグが諦めたような溜息を吐いた。
「修業……、するかな」
 思わず、驚きの声を上げてしまった。
 史上最大の真力を有しているローグであったが、実はこの二月。修業らしい修業は一度もしていなかった。
 初歩真術は、聞いただけで習得できるほど物覚えがいいというのに、彼はやる気を欠いていたのだ。輝尚石が作れるだけで商いになると本人は言い訳をしていた。けれど、真導士の里に満ちている選民意識に反発していたのは、自分の目にも明白であった。
「やりたくはないと思っていたが、致し方ない」
 不承不承といった風情であるが、意志を口にした。口に出したのならば必ず実行に移すだろう。
 彼の信条は常に真っ直ぐだ。
 反発がはじまったのは、自分への嘲笑を彼が知ってから。密かに気に病んでいた事柄が解消され、肩に乗っていた重荷が下りたように思えた。
「力を持てば、面倒事に巻き込まれるだけだと思っていた。でも力がなければ、厄介の種を排除することもできない。目立たないよう、隠れ潜んでいることも考えたが、あいつが戻ってきた以上は力がないと……生き残ることすら難しそうだ」
 ローグの気配が、大きくゆれたのを感じた。
 彼が言う、あいつ。それはきっと――

「"森の真導士"……」

 島を吹き飛ばす、悪意に染まった白の光。
「目的はわからない。サキを狙ったのか、俺を狙ったのか……。サガノトスの真導士なら、誰でもよかったのか。何一つ見えてはこない。ただ、味方でないことだけは確かだ」
 ローグは、手を繋いだまま湖を見つめている。
 真力の高波の合間。決意の炎が気高く燃えているのを視ていたら、自分の中にも炎が宿ったのを感じた。
「力が必要だ。雛だと思われている内に……」
「はい」
 黒髪の相棒の気配に触れて。心の炎を育てながらも、過去に手に入れた知識が思い出された。
 真力の高い者は、他者の気配に鈍くなる。代わりに自身の真力で、他者に影響を与えることができるのだという。
 高い真力を有している者の近くに寄れば、真力の低い者は無意識に"共鳴"してしまうことすらある。その者が怖気づけば、周囲の戦意も下がり。その者が高い覇気を有していれば、周囲の戦意が向上する。
 真っ直ぐに、力強く歩きはじめた彼を見つめる。恋しい人の横顔には、一片の迷いも見当たらない。
 それが誇らしいと思え。心の炎が大きく立ち昇ったのがわかった。

 降りることが許されない運命ならば、先へ――。
 逃れることが叶わぬ宿命ならば、受け止めてみせよう。
 二人ならばきっと、どこまでも駆けて行けるだろうから。

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