蒼天のかけら  第六章  倉皇の迷宮


吉凶の年


 湖を見据えていた黒が、自分を映した。
 黒く透き通った穏やかな瞳に、恋心が膨らんでいってしまう。感情の膨らみを隠すことはできない。いくら真力が高かろうと、至近距離にいる相棒の気配であれば、彼だって辿れてしまう。
「いま、何を考えている」
 いじわるな問いが、顔に熱を生む。
 彼は自分のこの感情が、何に起因しているか知っているはずだ。
「聞かないでください」
「サキはそればかりだ」
「……わかっているでしょう」
「そうだとしても、サキの口から聞きたい」
 やはり、わかっているのではないか。横を向いて視線を逸らしてみれば、彼の手が添え髪をくいと引っ張る。
 いたずら小僧が顔を出した。先ほどまで、気高い瞳で未来を見据えていたローグの変わり身に、くすりと笑いが出てしまった。
「こちらを向いてくれ」
 笑われたことで、少し拗ねてしまったようだ。
 また、いじけ虫になられても困る。もう白の果実は食べ切ってしまった。
 添え髪を引く力に合わせて、振り返り。仰ぐ。
 背丈に差がある自分達が、傍近くで顔を合わせようとすると、どうしてもこういう形になってしまう。
 ローグと顔を合わせたところで、彼が身を屈めてきた。
 そんな外で……と躊躇いはしたけれど。歩みはじめたローグを祝福したくて、目を閉じた。
 唇に熱が触れる。
 慣れない感覚に眩暈が起きそうだった。握っている手に縋って立つ。
 ふと大気の気配が動く。もう片方の腕が、自分を迎え入れるように広げられた。飛び込もうとした時、唐突に声を掛けられた。

「おはよう、お二人さん」

 二人して彫像と化した。
 現実を見たくない。見たら彫像の身体がばらばらに砕けて、大地に還ってしまいそう……いや、むしろ還ってしまいたい。
 覚悟を決めたらしいローグが、現実を覗き込もうと声の主を見た。自分は、そちらを見ているローグの喉元を、黙って見ていることしかできない。
 声の主を確認した彼は、その名を口にしてしまった。
「キ……クリ正師」
 声でわかってはいた。
 でも、そうであって欲しくはなかった。よりによって上位の真導士であり、自分達の指南役でもあるキクリ正師であるとは。運が悪過ぎる。
 ローグの近くにい過ぎて、気配が感じ取れなかったらしい。
 史上最大の真力は、真眼を閉じた正師の気配など、たやすく掻き消してしまう。
「修業が足らないようだな。今度、特別講義の時間でも設けようか?」
 キクリ正師の声には、多分にからかいが混ざっている。面白くて、面白くて仕方ないと、暗に伝えてきていた。
「い、いえ。……結構です」
 ローグがここまで動揺するなど滅多にない。喉元が赤に染まっているのが見てとれた。
 不思議なことに。慌てている人を傍で見ていると、それだけで落ち着いてしまうことがある。いまの自分がいい例だろう。恥ずかしさは消せないけれど、キクリ正師の顔が見れないほどではなくなった。
 息を大きく吸い込んで、声がした方向に身体を向ける。
「おはようございます、キクリ正師」
 赤茶けた髪も眩しく、年若い正師が立っていた。自分が挨拶をしたのを意外に思ったらしい。紺碧の瞳が、わずかに面白がる色を強くした。
「こういう時は、女の方が強いものかな……」
 ひとり言のように呟き、完全に血が上ってしまっているローグと、自分とを見比べた。
 キクリ正師は里の上層部の中で、もっとも導士に近しい。
 正師が持つ、快活な人柄も要因だけれど。三人の正師の中で、一番若いことからも起因している。
 親しげな雰囲気を持つ正師は、導士達にとって兄のような存在でもある。自分に兄弟はいない。でもキクリ正師を見ていると、どういうものなのか少しわかる気がする。
 キクリ正師は、わざとらしい咳払いを一つした。
「仲がいいのは結構だが、風紀を乱し過ぎないように。……すまんな、とりあえず指導する決まりとなっている。まあ、他の正師に見つからないよう、周囲には気をつけなさい」
 虫の声よりも静かに、二人で返事をした。
 さすがに里が推奨しているだけあって、叱責を受けるということはないらしい。
「キクリ正師。このようなところで何をなさっているのですか」
 平静を取り戻したローグは、ちょっと恨みがましい声で質問をした。話題を逸らすというより、何でこんな場所にいるのかと抗議をしているように感じる。
「修行場の結界を、展開し直してきたのだ。破れでもしたら大変だからな」
 サガノトスには、導士が利用できる修行場がいくつかある。
 修行場には誤って周囲に影響を与えないようにと、強固な結界が展開されている。大がかりな真術を試す時は、必ず修行場で行うようにと指導されていた。キクリ正師は、どうやら結界の管理を任されているらしい。
 言われてみれば、湖の近くにも修業場があった。

「二人はどうしたのだ。昨日、実習から帰ってきたばかりだろう。疲れはちゃんと取れたのか」
「……どうも気力が高ぶっていたようで。二人して早起きしてしまいまして、ならば散策でも、と」
 正師は、実習について聞き及んでいるのだろう。
 からかいをすっかり消して、自分達を気遣ってくれた。
「今日は、とにかく身体を休めなさい。気力や真力も大事だが、人である以上は体力がもっとも大事だ。どうにも上手く気力が整わないというなら、中央棟を訪ねてきなさい。こういう時は自分達で抱え込まないことが肝要。任務内容が特殊だったゆえ、里の中ではうかつに話せない。だが、正師相手ならば許される。必要なら私を呼び出すよう。遠慮はいらないと他の者達にも伝えておきなさい」
 ふむ。
 やはりキクリ正師は導士思いなのだった。正師のこういう部分が、男にも娘にも人気である理由なのだと納得できる。
 キクリ正師は、いい人であると感動していたら。またもや、からかいの笑顔を作られてしまった。
「それにしても、お前達はずいぶんと進展が早いな。"迷いの森"を抜けてきた時から、いつかそうなるだろうとは思っていたが、ここまで早いとは思いもしなかったぞ」
 正師は笑顔のまま、二人の間を指差してきた。
 "迷いの森"を抜けて来た時と同じように、固く握り合っている手を思い出し。大慌てで引き剥がした。
「キクリ正師!」
 ローグが必死の様相で、からかいに対する抗議をした。しかし、大笑いをされただけで済まされてしまった。
 自分達は何と迂闊なのだろうか。
 恥ずかしくて下を向いたら、大人しく鎮座していたジュジュと目が合った。
「この様子なら、サキは大丈夫そうだな。……こちらとしても案じていたのだ。里に来てすぐあのような不祥事に巻き込まれたゆえ。しかし、お前の庇護があるとわかれば、もう恐ろしい目に合うこともあるまい」
 ローグの表情が変わった。
 不祥事とはリーガ達の一件だろう。かの一件はサキだけではなく、里の上層にも衝撃を与えていたらしい。
「今年は導士の数が多いのも相まって、揉め事が多発していてな。例年よりもいさかいが起きやすいようなのだ。あれ以降、正師や内勤の高士が見回りを強化している。何か起こったら知らせてくれると助かる」
「承知しました」
 ぴりと、しびれるような何かを感じた。
 感覚を逃していけないような気がして、慌てて正師に質問をする。
「今年だけ、揉め事が多いのですか……?」
 紺碧の瞳の中に……瞬時、思考がゆれた。
 真眼を閉じているキクリ正師から、ささやかにこぼれている真力の気配が変化していく。
 正師の気配に触れて、やはりこの人は、里の上層に位置するべき人なのだと納得した。有能でなければ正師の位には就けない。導士の前では隠していても、真導士としての腕前は確かなのだと、気配だけで知れる。
「多いな……。ここまで導士達の気力が荒い年はなかった。一人一人と接すれば、普通なのだが、集団になると浮き足だってしまっている」
 何を思って、二人にこの話をしているのかは知らない。しかし、これは警告であると本能が見極めた。
「年嵩の高士連は、"吉凶の年"であるからとも言ってはいる。どうもな……」
「"吉凶の年"?」
 自分の知見は、まだまだ狭い。
 ドルトラント王国での常識を覚えようとしているのだが、どうにも追いついていないようだ。
「ああ、今年は"二つ星"でしたね」
 ローグはキクリ正師の言葉を、正確に受け取った。
 自分の知らない事柄であると気づいた彼は、いつもの如く丁寧に意味を教えてくれる。
「"吉凶の年"というのは十二年に一度巡ってくる。天に散る星の中。たった二つだけ、大きく輝く星が生まれる年だから"二つ星"とも呼ばれる。"吉凶の年"は他の年に比べて、人の記憶に残る出来事が多くなる。いいことにしろ悪いことにしろ、派手な事件が起こりやすいという……一種の迷信だ」
 四大国の大戦が開始されたのも、終結したのも"吉凶の年"であったらしい。

 "二つ星"。
 それは実習の時に、甲板で見た二つの大きな星のことだろう。そのようないわれがあるとは知らなかった。
 鼓動が早まったように思えて、胸に手を置いた。

「とにかく何かあったら知らせてくれ。見回りを強化していると言っても、導士達の中に入っているわけではない。ゆえに見落としてしまいがちだ」
「はい」
「それから、外で仲良くするのも程々にな。見回りは隠れて動いていることもある。男として、年頃の娘への気遣いを忘れてはならない」
「……はい」
 弱気な返事を聞いて、ようやく正師は二人の前から去って行った。赤い顔をしたローグと並んで、長い丈の白のローブを見送る。羞恥で固まっていた自分達は、ジュジュの鳴き声で我に返った。
 かき乱された真力と気力とを抱えつつ、二人と一匹で来た道を戻っていく。

 真っ赤に染まった黒髪の相棒は、それでも手を繋ぎながら家路を歩く。
 今日は快晴だ。
 雲一つない青空の下。鮮やかに舞う黒い髪を、幸せな心地で眺めていた。

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