お礼小話


● 二人


 はあ……。
 晴れ渡る青空の下、鬱々とした溜息が落とされる。
 数えること、かれこれいかほどか。
 オレの横で同じように空を見上げているダリオは、羨ましそうな溜息ばかりをついている。導士地区の中心部にある修行場には、オレ達を含めて二十人ほどの導士が集っている。その全員が、オレ達と同じように空を見上げているんだ。奇妙な光景だろうなとは思う。
 さすがに首が疲れてきたのもあって空から視線を落とし、ついでに周囲を見やる。

 男もお嬢さんも一様に同じ顔をしている。
 呆けたと言ってもいいけど、呆れたと表現した方が近い。中には悔しそうとか悲しそうとか、そういう類の顔を作っている者もいる。頬を赤らめて、熱心に見入っているお嬢さんもいるにはいる。でも、大半がやはり呆れたような顔で空を見上げている。

 はあ……。

 その中でもダリオは、また露骨な表情のまま空を見上げている。
 隠すと言っていた気持ちは、ものの見事にだだ漏れだ。

 見上げた先には二人の導士。
 旋風を生み、ローブを軽やかにはためかせている黒髪の男。
 我らが"首席殿"――じゃなくてローグは、お嬢さん達からの視線を一身に集めている。多分。いいや、絶対に視線は気にしていない。気づいてはいるだろうけど、気にも留めていない。
 理由は明白だ。
 あいつはいま、他のことに夢中になっている。
「もう少しだ。そのまま……。そのまま……」
 学舎で貫き通してきた無表情は、雲の彼方に飛ばしたらしい。
 大半の同期にとってめずらしいと思えるだろう。だけど、オレ達にとってはよく見慣れたローグの顔だ。
「そう。そうだ。ゆっくり……、もう少し」
 ひたすらに励まし続けているローグは、両手を広げて待っている。
 ローグが浮いている場所。その下方で、ふわふわふらふらとゆれている白い人影。懸命に風を操り、相棒の元へ向かおうとしているのは儚い琥珀の友人――サキちゃんだ。
「いいぞ。ほら、こっちだ」
 その様は、生まれたての子羊を見守る狼。
 覚束ない歩みを刻むように、少し浮いてはやや沈み。頬を真っ赤にしながら自分の方に向かってくる相棒を、延々と励ましている。牙を上手く隠せているところが小憎たらしい。

 旋風を操れるようになりたい。
 お嬢さん達から出てきた願いを叶えるべく、雁首そろえて修行場まできた。ティピアちゃんとユーリちゃんは、どうにか飛べるようになった。最後の最後に残ってしまったのはサキちゃん。身体を動かすのが苦手だと言っていたのは事実だったようで、いまだ苦戦中。相棒の挑戦につき合っているローグは、嫌な顔一つせず。……というかいやらしい顔で、サキちゃんの修行を手伝っている。
 最初は、浮くだけで精一杯だった彼女も、徐々にコツがわかってきたのか。あと少しのところまできていた。
 ついつい、見ているこちらにも力が入る。
「サキ、まだだ。ゆっくり……」
 ふわんとゆれた身体。辿りつく直前で体勢を崩したサキちゃん。危ないと言いそうになったところで、ローグが動いた。
 自分に向けて伸ばされた左手をつかみ、彼女の身体をすくい取って腕の中へと囲い込む。
「よし――!」
 金の子羊を腕の中へと招きいれ、当然の如く抱き締めた。ただでさえ緩んでいた顔はいまや満面の笑みへと進化して、よりいやらしさに磨きがかかっている。見ているだけで胸焼けがしてくるような狼の甘い笑顔。
 光景に見入っていた同期達から、様々な種類の吐息が出された。
 修行場に満ちた吐息の上に、どんよりとしたダリオの溜息が乗っかって、何だかやってられない気分になる。お騒がせな番を見上げたまま、追加の溜息をついてやった。



 空中で羊を捕獲した狼は、自ら生んだ風に乗って優雅に着地した。
 突き刺さるような周囲の視線もおかまいなし。
 満面の笑みを浮かべ、足早に木陰へと向かう。木陰にはすでに休んでいた娘が二人。その二人の横で金の羊を解放する。
 暑さと緊張のせいで、頬を真っ赤にしているサキちゃん。その彼女のために流水で手布を濡らし、甲斐甲斐しく汗を拭う。筒から水を得るのに夢中な羊は、狼の成すがまま。
 この光景を見れば、さすがに理解する。ロ
 ーグの方がお熱を上げているのなんて一目瞭然。
 認めたがらなかった一部の同期達も、これで観念してくれるはず。同期達のことを思ってたより不愉快に感じていたらしい。自分の意外な一面に驚きつつ、せっせと働く狼の姿を追う。
「どうでしたか」
「上手く飛べている。前に進めるようになってきたから、明日は方向転換の修行をしよう」
「今日はお終いなのですか?」
「そろそろ昼が近い。日が強くなってくるからやめておこう」
「でも……、もう少しだけ」
 駄々をこねるように狼を見上げる金の羊。

 危ない、がぶりとやられちゃう。
 口には出さずに心配する。古今東西、羊さんというのは無防備なもんだ。
 いざとなってから、めえめえ鳴いても遅いんだよ?

 こちらの心配が裏目に出たのか、狼の動きが止まった。
 妙なことをしたら蹴りを入れてやろう。
 そう思って半歩前に出る。
「サキ」
 鋭い牙を隠したまま、羊との距離を詰めて狼は言う。
「暑さで倒れたら修行どころではなくなる。せっかく体調も戻ってきたんだ。ここで無理をするな」
「もう少しだけです。今日がんばれば、もっと上手く飛べそう……」
 空を飛びたい。
 彼女の願いは考えていた以上に強いらしい。普段だったらとっくに諦めているだろうに、どうにか説得しようと食い下がっている。二人のやり取りは、またもや周囲の注目を集めることになった。
 サキちゃんは大人しい。
 その姿を見ても。学舎での過ごし方を見ても。きっと誰でもそう思う。
 四大国において女が男に意見をするのは稀。
 例えば、うちの相棒みたいに身分が高いとか、べらぼうに気が強いとかだったら不思議じゃない。
 でもサキちゃんは、よくも悪くも普通のお嬢さん。それなのに男に向かって堂々と意見している。しかも相手は"首席殿"。そりゃもうびっくりってやつだろう。
 同期の連中は彼女が大人しいのをいいことに、口さがないあれこれを言っていた。何を言っても反論されないから、ちょっとばかり調子にも乗ってしまったに違いない。奇妙な顔で固まっている何人かは、ようやく気づいてくれたようだ。
 遅いけど。
 すっごく遅いけど、気づかないよりはいいかと、そんなことを考えた。

「お願いです、もう少しだけ……。いいでしょう?」
「我侭を言うな。顔が真っ赤だ。熱にやられたらどうする」
 狼の言葉尻が、やや弱くなった。
 ……まったくどうしようもない。恐怖のカルデス商人は、相棒の頼みだけは断れないようだ。
 とはいえ、このままじゃあ頭が茹で上がってしまう。
 目の前で患者を出すのはお断り。ここらで救いの手でも差し伸べてやるか。
「サキちゃん。今日はお終いにしよう」
「ヤクスさん……。でも」
「だーめ。医者の言うことは聞いてね。熱で倒れたら二、三日はまともに動けないよ。せっかく修行しても、寝てる間に身体が忘れちゃう。意味がなくなるから、毎日ちょっとずつにしよう」
 金の羊さんは、残念そうな顔をして俯き……不承不承だけど頷いてくれた。その横で、狼もほっと息を出している。
 からかうのも面倒になってしまうほど相棒にべた惚れしているローグは、彼女の頭にフードを乗せて手を差し出した。
「三人とも喉が渇いただろう。倉庫から夏氷でももらって帰ろうか」
 涼を匂わせた誘い文句は、彼女を動かすのに十分な力を持っていたようだ。
 ローグの差し出した手をつかみ、立ち上がって歩き出す。手を繋いだまま歩き出した二人を見て、ダリオから盛大な溜息が落とされた。

 ……今日もまた、あつい一日になりそうだ。


○○○○○


 サロンにやってきたのは男ばかり。
 お嬢さん方は全員が帰宅してしまった。水を浴びて汗を流したいんだそうな。
 それはそれで麗しいが、相変わらずの茶会になってしまった。暑さとむさ苦しさを誤魔化すため、冷茶を一気にあおっておく。

「ようやく全員が飛べたな」
 あせもができたのか、襟元を掻きつつクルトが言った。
「ああ。あとは慣れだけだ。修行場への行き帰りは旋風を使ってみるか。歩くよりいいだろうし、何事も修行だ」
「それはいい案です。早速、明日から実行しましょうか」
 定期的に開かれるようになった会合。
 周囲に人が多い時は、こうやって真術の話に持ち込むようにしていた。
 ローグが勝ちとった過去の知識は、全員にわけ隔てなくと決めている。だけど、時と場合は選ばなきゃいけない。誰が聞いているかわかんないってのは、恐ろしいもんだね、まったく。
 さっきまでのにやけ面は、きれいに折りたたんで仕舞い終えたらしい。
 黒の狼から、悪知恵はたらくカルデス商人に戻ったローグは、冷茶を優雅にすすって話題を先導している。
 束の間。
 オレ達の卓とその周囲から、話し声が薄くなる。
 相変わらず人目を惹いている黒髪の友人は、黙っていれば貴族に見えなくもない。話し出すと荒い感は誤魔化せないから、黙っている時だけ。この時だけは、貴族の令息と言われても信じてしまいそうだ。

 先日の"里抜け事件"に関する話題は、瞬く間に同期達全員が知るところとなった。ここぞとばかりにローグを叩く奴もいたけれど、すぐに消えてなくなった。
 同期の連中にとって、こいつは優れたる者。
 自分より優れている奴への批判はどこか後ろめたい。嫉妬と受け取られてしまえば恥になる。理由はそんなところだろうか。
 ローグに関しての心配はなくなった。ところがどっこい、何でかサキちゃんへの当たりが強くなってしまった。
 彼女が不幸の源だとか、ローグを唆したとか。残念な噂が広がってしまっている。
 ほんとに何でだろう?
 導士地区に広がっていた真術は、里の手により霧散しているのに。最初から真術の影響ではなかったのか。ローグが言っていたように心根の問題だったのか。
 ……おかしいな。
 それぞれと話してみれば、悪人だとはとても思えないんだよな。皆には気づかれないよう内心で思案を重ねているけど、今日も答えは得られなさそうだ。

「"首席殿"――」
 むさい卓に割り入ってきた男の声。
 ああ、またか……。
 誰もが面倒そうな顔で相手を見返す。あのチャドですらも、すっかり雰囲気に染まってしまった。カルデス商人の影響力は留まることを知らない。
「誰だ」
 感情を引っ込めたローグは、不機嫌そうにも見える無表情で男に問う。
 声をかけてきた男の顔は、うっすらと記憶にある。
 名前は出てこないから"三の鐘"の誰かだろう。ローグの顔色を窺っている男は、汗をかきかき名を伝えてきた。聞いた名前に覚えはなかった。反応の薄さに動じた男は、クルトを指差し「同じ"三の鐘の部"だ」と付け加える。
 だしとして使われた格好になったクルトは、唇を尖らせ半目になった。不貞腐れたクルトの代わりに、ダリオが「確かに"三の鐘の部"です」と答える。微妙な感じになってしまった卓で、全員がローグの次の言葉を待つ。
「……何用だ? ギャスパルからの言伝でも預かってきたのか」
「ち、違うっ。違うんだ"首席殿"。オレはギャスパルの手下じゃない!」
 堰を切ったように弁明を並べ出す。長々とした前置きで幾度も強調されたので、ギャスパルの手下じゃないことはわかった。
 そもそも"共鳴"を受けていないから、言われなくとも知っている。
 当人の口からはっきりと言わせる。ローグのこだわりの一つだ。理由は聞いていない。まあ、ローグが言うのならと全員が受け入れているだけ。信頼と言えばそうなんだろう。
 とはいえ、ここまで口上が長いとさすがに飽きてくる。そろそろご勘弁いただきたい。
「わかった。お前がギャスパルの手下ではないのは理解した。それで俺に何の用だ」
 もう十分……というか、いい加減にしろと匂わせつつ、ローグが問う。
 聞かれた方は、ごくりと唾を飲み込んだ。気がつけば周囲の卓でも緊張感がただよっている。

 ……ああ、そういうことね。


 言うなればこの男は先兵。
 こいつが成功したら我も我もと追随する気らしい。この男は貧乏くじを引かされたんだな。
 でも、まいった。
 遠まわしなのはローグが嫌がるんだけど、引き込む数は多いほうがいい。さあて、どう説得しようか?
「今日、ギャスパルから脅されて……。次に会った時までに、どちらにつくか身の振り方を決めろって言うんだ。オレはあいつの手下になりたくない。"共鳴"されたら言いなりにならなきゃいけない。……だから"首席殿"の仲間に入れてくれないか?」
 ギャスパルの奴と、ぼやいたのはクルトだ。不快感をこれでもかと示した赤毛の隣で、ブラウンとフォルが空を睨んでいる。
 エリクとダリオは、どこでもない場所を見つつ黙っている。
 口を開いたのはジェダス。どうされますか? と、茶をすすりながら軽く聞く。その向かいに座っているのはチャド。
 チャドは男の顔をじっと見ている。いつの間にか、二人には役割分担ができていた様子だ。
「一つだけ、確認したい」
 右手を顎につけたお決まりの格好で、ローグは真力を放出した。
 これは威圧じゃない。周囲の気配が辛気臭くなってきたからだ。最近はそこらへんの機微もわかるようになってきた。
「こちらにつくというなら、お前がギャスパルとやり合う時は参戦する。その代わり、俺達が連中とやり合っている時は、お前も参戦しろ。俺達は用心棒ではない。肩代わりを望むなら他をあたれ」
 しんと静まり返ったサロン。
 ジェダスが茶をすする音が、やけに際立った。
「どうだ?」
 条件を飲むのか。飲まないのか。
 ローグは大した間を入れずに畳み掛けた。打算があって迷いが出るようなら断る。この方針があるからこそ、オレ達の数は増えずにいる。
「あの、そのう……」
 "正しい答え"を求めはじめた男は、問いかけたローグから視線を逸らした。

 ――残念。

 エリクが音を消したまま口を動かす。
「そうか。気が変わったらまたこい」
 席を立ったローグに続いて、順々に椅子から立ち上がる。失敗したと顔色を変えた男は棒立ちになったまま。
 結局、出番がこなかった仲裁役にできることは、また今度と声を掛けるくらいだ。
 やれやれと脱力したむさい面々。だらだらと歩き、サロンの入り口に差しかかったところで、気になる罵声を投げつけられた。
「"落ちこぼれ"はよくて、何でこいつは駄目なんだよ。よっぽど役に立つだろう」
 勢いよくローグが振り返る。
 怒気を漲らせた眼差しが、サロンの端から端まで走り抜けた。
 カップを手に取り、急いですすり出す者。俯いて己の手の甲を眺める者。誰一人、怒りに滾った視線を受け止める者はいなかった。受け止める度量もないくせに、どうして口にしてしまうんだろうね、ほんと。
「誰とは聞かん。いまの奴だけではないだろうからな」
 ローグの声は通りがいい。大声でなくとも、サロン程度の広さならこもることなく響いていく。
「今後、俺の相棒を侮辱したら……」
 真力が盛大に放たれた。
 馬鹿でかい真力は、慣れてきたといっても多少の息苦しさが残る。
「決闘の申し込みと理解する。――いいな」
 それだけ言って、ローグは足早にサロンを出た。加熱された友を追い、大急ぎで場を後にする。

 最後に見た連中は、視線が残っていると信じているかのように、静かに俯いていた。


○○○○○


「っかー! すんげえ腹立つ」
「まあまあ、クルト殿。いつものことじゃありませんか」
「いつもいつもだから余計なんだよ。困ってるんだ助けてくれって泣きついておいて、自分は何にもしない気でいるだろ。んで、断ったら後ろ足で泥を引っかけてきやがって。一発、殴ってやりゃよかったんだ」
「一応、ローグは謹慎明けってことになってるから。さすがに喧嘩沙汰はまずいでしょ」
「……じゃあ、オレが殴りに行く」
「おいおい。クルトが謹慎になったら、ユーリちゃんが狙い打ちにされるだろ」
 ギャスパル達は、いまだ同期達を狙っている。
 表立って派手に動かなくなっただけで、やっていることは相変わらずだ。人通りの多い道を選べば見回りの高士がいるから、なるべく大きな道を歩くよう心がけている。薬草を採りに行くにも、ぞろぞろと連れ立っていかなきゃまずい。ほとほと迷惑なんだけど、あちらさんはお構いなしだ。
「ちきしょー。……おい、ローグレスト。お前どこ行く気だ?」
 怒りを撒いていたクルトは、あらぬ方向へと進路を変えたローグを呼び止めた。「お前の家はこっちだろう」と言っているものの、言われているローグは道を進んでいる。
「倉庫に行く。帰りに寄ってきてくれと頼まれている」
「何だ。野菜でも足りてねえのか」
「輝尚石を使い切ってな。水晶をもらいに行く。あとは夏用のローブを頼まれている」

 ――ローブ。

 頼まれていると言っている以上、サキちゃんのローブだろう。
「お熱いことで」
 ジェダスがしれっと言ってのけた。
 言われたローグは恥ずかしがるどころか、誇らしそうに笑う。

 お嬢さんに衣服の用意を求められる。
 それは甘えであり、信頼である。さらに踏み込んで言えば、男の器を計る意味合いだってある。

 倉庫へもらいに行くだけだと軽く考えているなら、今度行ったときに教えてあげなきゃ駄目だ。男にとって、とても重大な出来事だし。地域によっては、そのまま婚姻と結びついてしまうほど大きなことなのに。
 ああもう……あの羊さんは、どうしようもなく無防備だ。
「ローグ、オレも一緒に行く」
「何でだ」
「天啓だ。女神が行ってこいとおっしゃっている」
 言った途端、仏頂面になったローグの背中を叩き、倉庫への道を歩く。
「……僕も行きますっ」
 遅れて名乗りを上げてきたダリオに、いじましさを感じたのはオレだけだったろうか。心配そうにしている友人達に向かって、また明日と手を振って挨拶を交わす。
 日は真上を過ぎたばかり。
 今日はうんざりするほど、あつい一日だ。



「お疲れ様でした」
 そっと目の前に出されたのは、涼しげな色のグラス。冷茶には氷が浮かんでいて、これぞ女神の恵みだと大喜びで受け取った。
「水晶の箱、ありがとうございます。全部使い切ってしまって困っていたのです」
 ほんわりとした柔らかい笑顔で礼を言われた。こういうのはやっぱりうれしい。がんばって運んできた甲斐があるというもの。
 これが自分の惚れた相手だったら、心底幸せだろうなと夢を描く。
 出会いが遅れているだけで、きっとどこかで待ってくれているはず。子供じみた夢だけど信じるだけなら罰は下らない。
「いいよー、いつでも言って。食事のお礼をしなきゃと思ってたからさ」
「あまり気にしないでください」
「いいのいいの。な、ダリオ」
 横で固まっている不自然なダリオは、聞いただけで挙動不審に拍車がかかった。
 さんざんどもった挙句、しどろもどろの返答をする。
 ダリオの様子がおかしかったのか、サキちゃんはお盆を持ったままくすくすと笑う。狼の勢いに慣らされた金の羊には、ささやかな好意程度じゃ通じないんだろう。
 ダリオのことを、ちょっとだけ哀れに思う。
「サキ、直ったぞ」
 間の悪いときに戻ってきたローグ。炊事場からひょこりと顔を出した男のせいで、ダリオが盛大にむせた。
 帰宅早々、棚の調子をみてくれと言われた黒髪の友人は、これまた意気揚々と修繕に乗り出していたのだ。案外、手早く終わったようで、成果を確認してくれと彼女を呼んでいる。
「もう終わったのですか?」
 びっくりした顔の羊さんは、お盆を卓に残し、ぱたぱたと炊事場に向かう。
「ああ、よかった。ちゃんと閉められるようになりました。ありがとう、ローグ」
「ねじが緩んで、閉めづらくなっていただけだ」
「そうだったのですね。お皿を入れすぎて歪んだのかと心配しました」
 真面目に悩んでいたらしい。
 真剣な口調になった彼女の台詞を聞き、ローグが笑った。それはそれは楽しそうに笑っているローグ。元気を取り戻した友人のどこにも、影の気配は残っていなかった。

 喪失しかけていた日常は、留まることなく流れている。
 これでいい。
 いいや、こうでなきゃいけない。

 運命のいたずらを乗り越えた二人の姿に目を細める。せつない溜息を片耳に入れながらも、満たされた気分を味わう。
 今日は、ほんとにあつい一日だ。
 でも、あつくてもいい。じめじめとした長雨に降られるよりは、ずっといいんじゃないか。
 そんな風に思えた。



「お邪魔しました」
「また、邪魔しに来るからなー」
「たまには遠慮しろと言っているだろうが……」
 あつくて堪らなかった一日だけど、どうやら終わりが近づいてきている。
 夕立の気配が濃くなってきた大気。緑の葉をゆらして駆け抜けていく風から、湿った匂いがしてきている。
 降られちゃ堪らんと、帰宅を選ぶことにした。
 夕飯の誘惑は断ち切りがたい。だからといって、濡れ鼠になって帰ったらお嬢様の小言が怖い。
 ぶつくさ言っているローグを心配したのだろうか。衣類を畳んでいた手を止めて、サキちゃんも見送りに出てきた。二人が並んで立っていると妙にしっくりとくる。
 早々に所帯じみてきた友人番。からかいの気持ちがむくむくと沸いてきたけど、今日のところは勘弁してやろうか。

 それじゃあと声をかけ、ダリオと共に帰路につく。
 同じように手を上げているローグの横で、彼女がぺこりとお辞儀をした。
 とろとろと歩き。少し気になって振り返れば、窓の向こうでサキちゃんがまとめた衣類を運んでいた。
 流して見た樹木の下。
 空いていた穴はすでに埋められている。緑の合間に茶色が覗いているだけの場所。本当に、ただそれだけの場所。
 きっと季節がその跡すらも消し去っていくだろう。
 そうでなきゃいけないんだ。

「……ヤクスさん」
 感慨にふけっていたオレを呼ぶ、萎れた声。
 うちひしがれているダリオは、遠く遠くを見つめて、また溜息を落とした。
「何でサキさんだったのかと……言っても詮無いことですよね」
 それは「自分が」だろうか。
 それとも「ローグが」だろうか。どちらにしても同じだけど、何となく気にかかった。
「わかっているんですけど、辛いものは辛いですね」
「だろうねー。どう、諦め切れそう?」
「諦めるしか……ない、です」
 もちろんローグの恋路は、友として応援している。だけど、こうやって目の前で魂が抜けそうになっていれば、やさしい言葉くらい用意したくなる。
「まあまあ、キクリ正師も言ってたじゃないか。諦め切るまでがんばってみたら?」
「無理ですよ」
 ダリオはつぶやいて、両手で顔を覆った。
「あんなの見ちゃったら、もう無理ですよ……」
「あんなの……って?」
 いったい何を指しているんだろう。
 すっかり毒されている自分には、いつも通りの二人でしかなかった。
 やっぱりあれか。片思い中のダリオにとってはきつかったのか。だったら悪いことをした、せめてオレくらいは気を使ってやればよかった。
「やっぱ、目の毒だったよねー」
「目の毒どころじゃないですよ。最初から無理ってわかってたけど、さすがにもう……」
 んんん?
 落ち込むにしても程度がひどい。
 ダリオが指している"あんなの"って、一体どれのことだろう。
「見てなかったんですか……?」
 腐っても真導士。
 燠火でも。真力が多少高くても。オレがわかっていないのは読めたらしい。
「見るって何を」
「だからさっきの洗濯物ですよ。完全に男物じゃないですか」
 思い出してみれば。確かにあれはローグの衣類。というか夜着だった。
 油断だらけの羊さんは、当たり前のように畳んでいたけど。……やっぱりあれは、まずいだろうね。
「まあね。でも畳むくらいだったら、他の番でもやってそうじゃないか」

 家事は女のもの。
 男が侵してはならない絶対の領域だ。男女の番だったら、同じようなことしてそうだ。

 深く考えず。のんびりと答えた。
「違いますよ。その後のあれですよ!」
 えっと、その後?
「何かあったっけ」
「ありましたよ。畳んだ服をサキさんが片付けていたじゃないですか」
 少し前に見た光景を思い起こす。
 きれいに畳んだ衣類をひとまとめにして、いそいそと部屋に向かっていた彼女の姿を。
「棚を開けるからってことか?」
 言えば、違うと首を振り、苦悩した様子で頭を抱えた。
「夜着を部屋に持って行ったんです」
「だから、部屋の棚に仕舞いに――」

 あ。

 あー……。

 そういう、ことか。

「ローグの夜着だったよな……」
「ええ、どこからどう見ても。……何でサキさんの部屋に運ぶんでしょうね」
 本当に、何ででしょうね。
 虚しさをただよわせ、小さくつぶやいたダリオは、かわいそうなくらい肩を下げてとぼとぼと歩いている。
「ダリオ」
「……はい」
「これからサロンに行くか」
 頷きを返すのが精一杯だったんだろう。
 あまりにいじましくて、放っておけなくなってしまった。
 結局、二人して飲みに行き。ざあざあと降ってきた雨でずぶ濡れになり。お嬢様相棒の怒りをかった。



 あついあつい夏のとある一日は、こうして幕を閉じたのである。

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