お礼小話
● 二人
はあ……。
晴れ渡る青空の下、鬱々とした溜息が落とされる。
数えること、かれこれいかほどか。
オレの横で同じように空を見上げているダリオは、羨ましそうな溜息ばかりをついている。導士地区の中心部にある修行場には、オレ達を含めて二十人ほどの導士が集っている。その全員が、オレ達と同じように空を見上げているんだ。奇妙な光景だろうなとは思う。
さすがに首が疲れてきたのもあって空から視線を落とし、ついでに周囲を見やる。
男もお嬢さんも一様に同じ顔をしている。
呆けたと言ってもいいけど、呆れたと表現した方が近い。中には悔しそうとか悲しそうとか、そういう類の顔を作っている者もいる。頬を赤らめて、熱心に見入っているお嬢さんもいるにはいる。でも、大半がやはり呆れたような顔で空を見上げている。
はあ……。
その中でもダリオは、また露骨な表情のまま空を見上げている。
隠すと言っていた気持ちは、ものの見事にだだ漏れだ。
見上げた先には二人の導士。
旋風を生み、ローブを軽やかにはためかせている黒髪の男。
我らが"首席殿"――じゃなくてローグは、お嬢さん達からの視線を一身に集めている。多分。いいや、絶対に視線は気にしていない。気づいてはいるだろうけど、気にも留めていない。
理由は明白だ。
あいつはいま、他のことに夢中になっている。
「もう少しだ。そのまま……。そのまま……」
学舎で貫き通してきた無表情は、雲の彼方に飛ばしたらしい。
大半の同期にとってめずらしいと思えるだろう。だけど、オレ達にとってはよく見慣れたローグの顔だ。
「そう。そうだ。ゆっくり……、もう少し」
ひたすらに励まし続けているローグは、両手を広げて待っている。
ローグが浮いている場所。その下方で、ふわふわふらふらとゆれている白い人影。懸命に風を操り、相棒の元へ向かおうとしているのは儚い琥珀の友人――サキちゃんだ。
「いいぞ。ほら、こっちだ」
その様は、生まれたての子羊を見守る狼。
覚束ない歩みを刻むように、少し浮いてはやや沈み。頬を真っ赤にしながら自分の方に向かってくる相棒を、延々と励ましている。牙を上手く隠せているところが小憎たらしい。
旋風を操れるようになりたい。
お嬢さん達から出てきた願いを叶えるべく、雁首そろえて修行場まできた。ティピアちゃんとユーリちゃんは、どうにか飛べるようになった。最後の最後に残ってしまったのはサキちゃん。身体を動かすのが苦手だと言っていたのは事実だったようで、いまだ苦戦中。相棒の挑戦につき合っているローグは、嫌な顔一つせず。……というかいやらしい顔で、サキちゃんの修行を手伝っている。
最初は、浮くだけで精一杯だった彼女も、徐々にコツがわかってきたのか。あと少しのところまできていた。
ついつい、見ているこちらにも力が入る。
「サキ、まだだ。ゆっくり……」
ふわんとゆれた身体。辿りつく直前で体勢を崩したサキちゃん。危ないと言いそうになったところで、ローグが動いた。
自分に向けて伸ばされた左手をつかみ、彼女の身体をすくい取って腕の中へと囲い込む。
「よし――!」
金の子羊を腕の中へと招きいれ、当然の如く抱き締めた。ただでさえ緩んでいた顔はいまや満面の笑みへと進化して、よりいやらしさに磨きがかかっている。見ているだけで胸焼けがしてくるような狼の甘い笑顔。
光景に見入っていた同期達から、様々な種類の吐息が出された。
修行場に満ちた吐息の上に、どんよりとしたダリオの溜息が乗っかって、何だかやってられない気分になる。お騒がせな番を見上げたまま、追加の溜息をついてやった。
空中で羊を捕獲した狼は、自ら生んだ風に乗って優雅に着地した。
突き刺さるような周囲の視線もおかまいなし。
満面の笑みを浮かべ、足早に木陰へと向かう。木陰にはすでに休んでいた娘が二人。その二人の横で金の羊を解放する。
暑さと緊張のせいで、頬を真っ赤にしているサキちゃん。その彼女のために流水で手布を濡らし、甲斐甲斐しく汗を拭う。筒から水を得るのに夢中な羊は、狼の成すがまま。
この光景を見れば、さすがに理解する。ロ
ーグの方がお熱を上げているのなんて一目瞭然。
認めたがらなかった一部の同期達も、これで観念してくれるはず。同期達のことを思ってたより不愉快に感じていたらしい。自分の意外な一面に驚きつつ、せっせと働く狼の姿を追う。
「どうでしたか」
「上手く飛べている。前に進めるようになってきたから、明日は方向転換の修行をしよう」
「今日はお終いなのですか?」
「そろそろ昼が近い。日が強くなってくるからやめておこう」
「でも……、もう少しだけ」
駄々をこねるように狼を見上げる金の羊。
危ない、がぶりとやられちゃう。
口には出さずに心配する。古今東西、羊さんというのは無防備なもんだ。
いざとなってから、めえめえ鳴いても遅いんだよ?
こちらの心配が裏目に出たのか、狼の動きが止まった。
妙なことをしたら蹴りを入れてやろう。
そう思って半歩前に出る。
「サキ」
鋭い牙を隠したまま、羊との距離を詰めて狼は言う。
「暑さで倒れたら修行どころではなくなる。せっかく体調も戻ってきたんだ。ここで無理をするな」
「もう少しだけです。今日がんばれば、もっと上手く飛べそう……」
空を飛びたい。
彼女の願いは考えていた以上に強いらしい。普段だったらとっくに諦めているだろうに、どうにか説得しようと食い下がっている。二人のやり取りは、またもや周囲の注目を集めることになった。
サキちゃんは大人しい。
その姿を見ても。学舎での過ごし方を見ても。きっと誰でもそう思う。
四大国において女が男に意見をするのは稀。
例えば、うちの相棒みたいに身分が高いとか、べらぼうに気が強いとかだったら不思議じゃない。
でもサキちゃんは、よくも悪くも普通のお嬢さん。それなのに男に向かって堂々と意見している。しかも相手は"首席殿"。そりゃもうびっくりってやつだろう。
同期の連中は彼女が大人しいのをいいことに、口さがないあれこれを言っていた。何を言っても反論されないから、ちょっとばかり調子にも乗ってしまったに違いない。奇妙な顔で固まっている何人かは、ようやく気づいてくれたようだ。
遅いけど。
すっごく遅いけど、気づかないよりはいいかと、そんなことを考えた。
「お願いです、もう少しだけ……。いいでしょう?」
「我侭を言うな。顔が真っ赤だ。熱にやられたらどうする」
狼の言葉尻が、やや弱くなった。
……まったくどうしようもない。恐怖のカルデス商人は、相棒の頼みだけは断れないようだ。
とはいえ、このままじゃあ頭が茹で上がってしまう。
目の前で患者を出すのはお断り。ここらで救いの手でも差し伸べてやるか。
「サキちゃん。今日はお終いにしよう」
「ヤクスさん……。でも」
「だーめ。医者の言うことは聞いてね。熱で倒れたら二、三日はまともに動けないよ。せっかく修行しても、寝てる間に身体が忘れちゃう。意味がなくなるから、毎日ちょっとずつにしよう」
金の羊さんは、残念そうな顔をして俯き……不承不承だけど頷いてくれた。その横で、狼もほっと息を出している。
からかうのも面倒になってしまうほど相棒にべた惚れしているローグは、彼女の頭にフードを乗せて手を差し出した。
「三人とも喉が渇いただろう。倉庫から夏氷でももらって帰ろうか」
涼を匂わせた誘い文句は、彼女を動かすのに十分な力を持っていたようだ。
ローグの差し出した手をつかみ、立ち上がって歩き出す。手を繋いだまま歩き出した二人を見て、ダリオから盛大な溜息が落とされた。
……今日もまた、あつい一日になりそうだ。
○○○○○
サロンにやってきたのは男ばかり。
お嬢さん方は全員が帰宅してしまった。水を浴びて汗を流したいんだそうな。
それはそれで麗しいが、相変わらずの茶会になってしまった。暑さとむさ苦しさを誤魔化すため、冷茶を一気にあおっておく。
「ようやく全員が飛べたな」
あせもができたのか、襟元を掻きつつクルトが言った。
「ああ。あとは慣れだけだ。修行場への行き帰りは旋風を使ってみるか。歩くよりいいだろうし、何事も修行だ」
「それはいい案です。早速、明日から実行しましょうか」
定期的に開かれるようになった会合。
周囲に人が多い時は、こうやって真術の話に持ち込むようにしていた。
ローグが勝ちとった過去の知識は、全員にわけ隔てなくと決めている。だけど、時と場合は選ばなきゃいけない。誰が聞いているかわかんないってのは、恐ろしいもんだね、まったく。
さっきまでのにやけ面は、きれいに折りたたんで仕舞い終えたらしい。
黒の狼から、悪知恵はたらくカルデス商人に戻ったローグは、冷茶を優雅にすすって話題を先導している。
束の間。
オレ達の卓とその周囲から、話し声が薄くなる。
相変わらず人目を惹いている黒髪の友人は、黙っていれば貴族に見えなくもない。話し出すと荒い感は誤魔化せないから、黙っている時だけ。この時だけは、貴族の令息と言われても信じてしまいそうだ。
先日の"里抜け事件"に関する話題は、瞬く間に同期達全員が知るところとなった。ここぞとばかりにローグを叩く奴もいたけれど、すぐに消えてなくなった。
同期の連中にとって、こいつは優れたる者。
自分より優れている奴への批判はどこか後ろめたい。嫉妬と受け取られてしまえば恥になる。理由はそんなところだろうか。
ローグに関しての心配はなくなった。ところがどっこい、何でかサキちゃんへの当たりが強くなってしまった。
彼女が不幸の源だとか、ローグを唆したとか。残念な噂が広がってしまっている。
ほんとに何でだろう?
導士地区に広がっていた真術は、里の手により霧散しているのに。最初から真術の影響ではなかったのか。ローグが言っていたように心根の問題だったのか。
……おかしいな。
それぞれと話してみれば、悪人だとはとても思えないんだよな。皆には気づかれないよう内心で思案を重ねているけど、今日も答えは得られなさそうだ。
「"首席殿"――」
むさい卓に割り入ってきた男の声。
ああ、またか……。
誰もが面倒そうな顔で相手を見返す。あのチャドですらも、すっかり雰囲気に染まってしまった。カルデス商人の影響力は留まることを知らない。
「誰だ」
感情を引っ込めたローグは、不機嫌そうにも見える無表情で男に問う。
声をかけてきた男の顔は、うっすらと記憶にある。
名前は出てこないから"三の鐘"の誰かだろう。ローグの顔色を窺っている男は、汗をかきかき名を伝えてきた。聞いた名前に覚えはなかった。反応の薄さに動じた男は、クルトを指差し「同じ"三の鐘の部"だ」と付け加える。
だしとして使われた格好になったクルトは、唇を尖らせ半目になった。不貞腐れたクルトの代わりに、ダリオが「確かに"三の鐘の部"です」と答える。微妙な感じになってしまった卓で、全員がローグの次の言葉を待つ。
「……何用だ? ギャスパルからの言伝でも預かってきたのか」
「ち、違うっ。違うんだ"首席殿"。オレはギャスパルの手下じゃない!」
堰を切ったように弁明を並べ出す。長々とした前置きで幾度も強調されたので、ギャスパルの手下じゃないことはわかった。
そもそも"共鳴"を受けていないから、言われなくとも知っている。
当人の口からはっきりと言わせる。ローグのこだわりの一つだ。理由は聞いていない。まあ、ローグが言うのならと全員が受け入れているだけ。信頼と言えばそうなんだろう。
とはいえ、ここまで口上が長いとさすがに飽きてくる。そろそろご勘弁いただきたい。
「わかった。お前がギャスパルの手下ではないのは理解した。それで俺に何の用だ」
もう十分……というか、いい加減にしろと匂わせつつ、ローグが問う。
聞かれた方は、ごくりと唾を飲み込んだ。気がつけば周囲の卓でも緊張感がただよっている。
……ああ、そういうことね。
言うなればこの男は先兵。
こいつが成功したら我も我もと追随する気らしい。この男は貧乏くじを引かされたんだな。
でも、まいった。
遠まわしなのはローグが嫌がるんだけど、引き込む数は多いほうがいい。さあて、どう説得しようか?
「今日、ギャスパルから脅されて……。次に会った時までに、どちらにつくか身の振り方を決めろって言うんだ。オレはあいつの手下になりたくない。"共鳴"されたら言いなりにならなきゃいけない。……だから"首席殿"の仲間に入れてくれないか?」
ギャスパルの奴と、ぼやいたのはクルトだ。不快感をこれでもかと示した赤毛の隣で、ブラウンとフォルが空を睨んでいる。
エリクとダリオは、どこでもない場所を見つつ黙っている。
口を開いたのはジェダス。どうされますか? と、茶をすすりながら軽く聞く。その向かいに座っているのはチャド。
チャドは男の顔をじっと見ている。いつの間にか、二人には役割分担ができていた様子だ。
「一つだけ、確認したい」
右手を顎につけたお決まりの格好で、ローグは真力を放出した。
これは威圧じゃない。周囲の気配が辛気臭くなってきたからだ。最近はそこらへんの機微もわかるようになってきた。
「こちらにつくというなら、お前がギャスパルとやり合う時は参戦する。その代わり、俺達が連中とやり合っている時は、お前も参戦しろ。俺達は用心棒ではない。肩代わりを望むなら他をあたれ」
しんと静まり返ったサロン。
ジェダスが茶をすする音が、やけに際立った。
「どうだ?」
条件を飲むのか。飲まないのか。
ローグは大した間を入れずに畳み掛けた。打算があって迷いが出るようなら断る。この方針があるからこそ、オレ達の数は増えずにいる。
「あの、そのう……」
"正しい答え"を求めはじめた男は、問いかけたローグから視線を逸らした。
――残念。
エリクが音を消したまま口を動かす。
「そうか。気が変わったらまたこい」
席を立ったローグに続いて、順々に椅子から立ち上がる。失敗したと顔色を変えた男は棒立ちになったまま。
結局、出番がこなかった仲裁役にできることは、また今度と声を掛けるくらいだ。
やれやれと脱力したむさい面々。だらだらと歩き、サロンの入り口に差しかかったところで、気になる罵声を投げつけられた。
「"落ちこぼれ"はよくて、何でこいつは駄目なんだよ。よっぽど役に立つだろう」
勢いよくローグが振り返る。
怒気を漲らせた眼差しが、サロンの端から端まで走り抜けた。
カップを手に取り、急いですすり出す者。俯いて己の手の甲を眺める者。誰一人、怒りに滾った視線を受け止める者はいなかった。受け止める度量もないくせに、どうして口にしてしまうんだろうね、ほんと。
「誰とは聞かん。いまの奴だけではないだろうからな」
ローグの声は通りがいい。大声でなくとも、サロン程度の広さならこもることなく響いていく。
「今後、俺の相棒を侮辱したら……」
真力が盛大に放たれた。
馬鹿でかい真力は、慣れてきたといっても多少の息苦しさが残る。
「決闘の申し込みと理解する。――いいな」
それだけ言って、ローグは足早にサロンを出た。加熱された友を追い、大急ぎで場を後にする。
最後に見た連中は、視線が残っていると信じているかのように、静かに俯いていた。
○○○○○
「っかー! すんげえ腹立つ」
「まあまあ、クルト殿。いつものことじゃありませんか」
「いつもいつもだから余計なんだよ。困ってるんだ助けてくれって泣きついておいて、自分は何にもしない気でいるだろ。んで、断ったら後ろ足で泥を引っかけてきやがって。一発、殴ってやりゃよかったんだ」
「一応、ローグは謹慎明けってことになってるから。さすがに喧嘩沙汰はまずいでしょ」
「……じゃあ、オレが殴りに行く」
「おいおい。クルトが謹慎になったら、ユーリちゃんが狙い打ちにされるだろ」
ギャスパル達は、いまだ同期達を狙っている。
表立って派手に動かなくなっただけで、やっていることは相変わらずだ。人通りの多い道を選べば見回りの高士がいるから、なるべく大きな道を歩くよう心がけている。薬草を採りに行くにも、ぞろぞろと連れ立っていかなきゃまずい。ほとほと迷惑なんだけど、あちらさんはお構いなしだ。
「ちきしょー。……おい、ローグレスト。お前どこ行く気だ?」
怒りを撒いていたクルトは、あらぬ方向へと進路を変えたローグを呼び止めた。「お前の家はこっちだろう」と言っているものの、言われているローグは道を進んでいる。
「倉庫に行く。帰りに寄ってきてくれと頼まれている」
「何だ。野菜でも足りてねえのか」
「輝尚石を使い切ってな。水晶をもらいに行く。あとは夏用のローブを頼まれている」
――ローブ。
頼まれていると言っている以上、サキちゃんのローブだろう。
「お熱いことで」
ジェダスがしれっと言ってのけた。
言われたローグは恥ずかしがるどころか、誇らしそうに笑う。
お嬢さんに衣服の用意を求められる。
それは甘えであり、信頼である。さらに踏み込んで言えば、男の器を計る意味合いだってある。
倉庫へもらいに行くだけだと軽く考えているなら、今度行ったときに教えてあげなきゃ駄目だ。男にとって、とても重大な出来事だし。地域によっては、そのまま婚姻と結びついてしまうほど大きなことなのに。
ああもう……あの羊さんは、どうしようもなく無防備だ。
「ローグ、オレも一緒に行く」
「何でだ」
「天啓だ。女神が行ってこいとおっしゃっている」
言った途端、仏頂面になったローグの背中を叩き、倉庫への道を歩く。
「……僕も行きますっ」
遅れて名乗りを上げてきたダリオに、いじましさを感じたのはオレだけだったろうか。心配そうにしている友人達に向かって、また明日と手を振って挨拶を交わす。
日は真上を過ぎたばかり。
今日はうんざりするほど、あつい一日だ。
「お疲れ様でした」
そっと目の前に出されたのは、涼しげな色のグラス。冷茶には氷が浮かんでいて、これぞ女神の恵みだと大喜びで受け取った。
「水晶の箱、ありがとうございます。全部使い切ってしまって困っていたのです」
ほんわりとした柔らかい笑顔で礼を言われた。こういうのはやっぱりうれしい。がんばって運んできた甲斐があるというもの。
これが自分の惚れた相手だったら、心底幸せだろうなと夢を描く。
出会いが遅れているだけで、きっとどこかで待ってくれているはず。子供じみた夢だけど信じるだけなら罰は下らない。
「いいよー、いつでも言って。食事のお礼をしなきゃと思ってたからさ」
「あまり気にしないでください」
「いいのいいの。な、ダリオ」
横で固まっている不自然なダリオは、聞いただけで挙動不審に拍車がかかった。
さんざんどもった挙句、しどろもどろの返答をする。
ダリオの様子がおかしかったのか、サキちゃんはお盆を持ったままくすくすと笑う。狼の勢いに慣らされた金の羊には、ささやかな好意程度じゃ通じないんだろう。
ダリオのことを、ちょっとだけ哀れに思う。
「サキ、直ったぞ」
間の悪いときに戻ってきたローグ。炊事場からひょこりと顔を出した男のせいで、ダリオが盛大にむせた。
帰宅早々、棚の調子をみてくれと言われた黒髪の友人は、これまた意気揚々と修繕に乗り出していたのだ。案外、手早く終わったようで、成果を確認してくれと彼女を呼んでいる。
「もう終わったのですか?」
びっくりした顔の羊さんは、お盆を卓に残し、ぱたぱたと炊事場に向かう。
「ああ、よかった。ちゃんと閉められるようになりました。ありがとう、ローグ」
「ねじが緩んで、閉めづらくなっていただけだ」
「そうだったのですね。お皿を入れすぎて歪んだのかと心配しました」
真面目に悩んでいたらしい。
真剣な口調になった彼女の台詞を聞き、ローグが笑った。それはそれは楽しそうに笑っているローグ。元気を取り戻した友人のどこにも、影の気配は残っていなかった。
喪失しかけていた日常は、留まることなく流れている。
これでいい。
いいや、こうでなきゃいけない。
運命のいたずらを乗り越えた二人の姿に目を細める。せつない溜息を片耳に入れながらも、満たされた気分を味わう。
今日は、ほんとにあつい一日だ。
でも、あつくてもいい。じめじめとした長雨に降られるよりは、ずっといいんじゃないか。
そんな風に思えた。
「お邪魔しました」
「また、邪魔しに来るからなー」
「たまには遠慮しろと言っているだろうが……」
あつくて堪らなかった一日だけど、どうやら終わりが近づいてきている。
夕立の気配が濃くなってきた大気。緑の葉をゆらして駆け抜けていく風から、湿った匂いがしてきている。
降られちゃ堪らんと、帰宅を選ぶことにした。
夕飯の誘惑は断ち切りがたい。だからといって、濡れ鼠になって帰ったらお嬢様の小言が怖い。
ぶつくさ言っているローグを心配したのだろうか。衣類を畳んでいた手を止めて、サキちゃんも見送りに出てきた。二人が並んで立っていると妙にしっくりとくる。
早々に所帯じみてきた友人番。からかいの気持ちがむくむくと沸いてきたけど、今日のところは勘弁してやろうか。
それじゃあと声をかけ、ダリオと共に帰路につく。
同じように手を上げているローグの横で、彼女がぺこりとお辞儀をした。
とろとろと歩き。少し気になって振り返れば、窓の向こうでサキちゃんがまとめた衣類を運んでいた。
流して見た樹木の下。
空いていた穴はすでに埋められている。緑の合間に茶色が覗いているだけの場所。本当に、ただそれだけの場所。
きっと季節がその跡すらも消し去っていくだろう。
そうでなきゃいけないんだ。
「……ヤクスさん」
感慨にふけっていたオレを呼ぶ、萎れた声。
うちひしがれているダリオは、遠く遠くを見つめて、また溜息を落とした。
「何でサキさんだったのかと……言っても詮無いことですよね」
それは「自分が」だろうか。
それとも「ローグが」だろうか。どちらにしても同じだけど、何となく気にかかった。
「わかっているんですけど、辛いものは辛いですね」
「だろうねー。どう、諦め切れそう?」
「諦めるしか……ない、です」
もちろんローグの恋路は、友として応援している。だけど、こうやって目の前で魂が抜けそうになっていれば、やさしい言葉くらい用意したくなる。
「まあまあ、キクリ正師も言ってたじゃないか。諦め切るまでがんばってみたら?」
「無理ですよ」
ダリオはつぶやいて、両手で顔を覆った。
「あんなの見ちゃったら、もう無理ですよ……」
「あんなの……って?」
いったい何を指しているんだろう。
すっかり毒されている自分には、いつも通りの二人でしかなかった。
やっぱりあれか。片思い中のダリオにとってはきつかったのか。だったら悪いことをした、せめてオレくらいは気を使ってやればよかった。
「やっぱ、目の毒だったよねー」
「目の毒どころじゃないですよ。最初から無理ってわかってたけど、さすがにもう……」
んんん?
落ち込むにしても程度がひどい。
ダリオが指している"あんなの"って、一体どれのことだろう。
「見てなかったんですか……?」
腐っても真導士。
燠火でも。真力が多少高くても。オレがわかっていないのは読めたらしい。
「見るって何を」
「だからさっきの洗濯物ですよ。完全に男物じゃないですか」
思い出してみれば。確かにあれはローグの衣類。というか夜着だった。
油断だらけの羊さんは、当たり前のように畳んでいたけど。……やっぱりあれは、まずいだろうね。
「まあね。でも畳むくらいだったら、他の番でもやってそうじゃないか」
家事は女のもの。
男が侵してはならない絶対の領域だ。男女の番だったら、同じようなことしてそうだ。
深く考えず。のんびりと答えた。
「違いますよ。その後のあれですよ!」
えっと、その後?
「何かあったっけ」
「ありましたよ。畳んだ服をサキさんが片付けていたじゃないですか」
少し前に見た光景を思い起こす。
きれいに畳んだ衣類をひとまとめにして、いそいそと部屋に向かっていた彼女の姿を。
「棚を開けるからってことか?」
言えば、違うと首を振り、苦悩した様子で頭を抱えた。
「夜着を部屋に持って行ったんです」
「だから、部屋の棚に仕舞いに――」
あ。
あー……。
そういう、ことか。
「ローグの夜着だったよな……」
「ええ、どこからどう見ても。……何でサキさんの部屋に運ぶんでしょうね」
本当に、何ででしょうね。
虚しさをただよわせ、小さくつぶやいたダリオは、かわいそうなくらい肩を下げてとぼとぼと歩いている。
「ダリオ」
「……はい」
「これからサロンに行くか」
頷きを返すのが精一杯だったんだろう。
あまりにいじましくて、放っておけなくなってしまった。
結局、二人して飲みに行き。ざあざあと降ってきた雨でずぶ濡れになり。お嬢様相棒の怒りをかった。
あついあつい夏のとある一日は、こうして幕を閉じたのである。