蒼天のかけら  第四章  罪業の糸


取り戻した心


 熱い真力に包まれている。
 無防備な内側をなぞる気配は……もうしない。

 まばゆい光が額にあって、視界の中がぼやけて見えない。その白の世界に手を伸ばす。伸ばした手が熱く骨ばった手に奪われた。
 涙がこぼれていくのを感じた。
「サキ……」
 低い声。
 その姿を確認しようと、白を掻き分けて進む。
 頭を撫でる感触と。手を握っている熱。覚醒しようと瞬きを繰り返す。
 瞬きのたび。ころころと落ちていく雫は、こめかみに流れて髪に吸われては消えていく。
 悲しげにゆれる黒の瞳が見えた。
「わたし……」
 問いかける。怖くて怖くて堪らないことを。
「わたしは、わたしですよね……?」
 ここにいるのは誰なのか。胸の痛みを覚えているのは誰なのか。
「ちゃんとわたしで、いますよね……」
「サキ、どうした。……何を言っているんだ?」
 低い声に呼ばれる。
 たった一つしかない自分の名前を、彼が呼んでくれる。
「呼んで……」
 言いながら、また雫が転がっていくのを感じた。
「名前、呼んでください……」
 わたしは、誰?
「サキ」
 そう。わたしはサキ、だからわたしの大切な人は――。

「ローグ」

 大丈夫。わたしはわたしでいられた。
 ちゃんとここにいる。
 帰ってきたんだ。
 誰よりも大切な――相棒の元へ。

 口付けが額に降ってきた。あたたかくて柔らかい。
 見上げてみれば、黒の瞳が近くでゆれている。中に映り込んでいる自分は、とても幸せそうに捕らわれていた。
「やっと、呼んでくれたな……」
 甘く低い声。耳元にささやきがきた。
 くすぐったくて少しだけ距離を取れば。こぼれた笑いと共に、また瞼に口付けられる。
「ローグ……」
 呼ぶたびに柔らかい雨に降られて。胸の奥で膨らんでいた気持ちが、とうとう喉から飛び出してしまった。
「ローグ、寂しい……」
「寂しい……?どうして、ここにいるだろう」
「でも、寂しいんです」
 握られている手に意志を伝えた。熱を帯びたそれを口元まで呼び寄せていく。
 自分の唇に、彼の熱い手を重ねる。すると、熱を孕んだ親指に緊張が走った。それでもそのまま束縛してしまうことにした。

「ずっと、寂しかった……」
 そう、あの日から。
 出会ってしまったあの日から、ずっとずっと寂しかったのだ。
「ここにいる……」
 知っている。だけどそれだけでは足りない。
 むずがるように首を振り、抱えた手をさらに握り込む。
「一緒にいると寂しい。でも、一緒にいないともっと寂しい……」
 頬に口付けが落ちてきた。そのあたたかさに胸が疼いて苦しさを増す。
「それは……困ったな……」
 笑う彼の低い声。
 こんなに苦しいのに、彼はどこかうれしそう。理不尽さを抱えたまま黒を睨みつける。
「そんなに怖い顔をするな」
「……だって、ローグがうれしそう」
「うれしいさ。サキにそう言われれば、うれしいに決まっている」
 くつくつと笑う彼に、素直な疑問をぶつける。
「わたしの、どこがいいんですか?」
 こんなわたしの。
 取り柄もない、見栄えもよくない。
 せっかくくれた大切な気持ちを裏切って、彼を傷つけるこんな自分を何故選ぶのか。
 考えても考えても、さっぱりわからない。
「全部」
「嘘です……」
 拗ねて答えれば、困ったように笑われる。
「何で信じない」
「信じられませんもの」
 どう考えても相応しくない。ここまでいい話なんて、自分に転がってくるはずがないのだ。
 捕えた手を人質にし。ちゃんと言うまで離さないと、瞳に力を入れていく。どうもいまの自分はねじが飛んでしまったらしい。羞恥を失った感情は、とにかく言質を取ってやると勢いを増していっている。
 弱ったなとつぶやいた彼は、やはりとてもうれしそうで。まったくもって納得がいかない。
「言うまで離しませんから」
「それはそれでうれしいが」
「……夕食、作りませんから」
「いや、それは困る」
 即答したローグに、つい笑いがこぼれた。
「今日は、揚げ芋のつもりでした」
「つもりって何だ。作ってくれたっていいだろう。傷心を抱えているんだぞ、俺は」
 急に本気になって言い募るローグを、くすくす笑いながら見つめる。
 目元を和ませた黒が、同じように見つめ返してくれているから、胸があたたかくなってくる。

 そろりと額を撫でられた。
「人見知りで、泣き虫」
 そのまま添え髪を梳いて、弄ぶ。
「意外と頑固で意地っ張り」
 弄んだ髪を、やさしくつまんで口付けをする。
「さらに言えば、負けず嫌いで、寂しがり」
「いいところが一つもありません……」
 さすがに落ち込んでローグを見上げてみれば、そうかと笑われる。
「最初は懐かない猫を、懐かせたつもりだったのだが……」
 膨れてみた。
 何でこう誰も彼もが人のことを動物に例えるのか。一応は年頃の娘であることを、考慮に入れてくれてもいいはすだ。
「どうやら、罠だったらしい」
 楽しそうにくつくつ笑う。笑いに黒さが混じってきていませんか、悪徳商人殿。
「毎日毎日、色々なことがあって。……いつの間にか目が離せなくなった」
 とくりと胸が脈打つ。
「もう、離そうとも思わない」
 頬に口付けを一つして、そのまま額をまた重ねた。
「これでは駄目だろうか」
 真剣な黒の瞳がまぶしくて、胸が高鳴っていく。
 高鳴りと同時に怖い気持ちが消え。胸に、幸福な恥ずかしさだけが残った。
「いまさら、赤くなってどうする……」
 こつりと小さくデコピンをいただく。
 そういうローグの耳も赤くなっているのだけれど。

 指摘したら本気のデコピンがきてしまいそうだから、いまは黙っておこう。

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