蒼天のかけら  第六章  倉皇の迷宮


繋がる二つ星


 夜が訪れた。

 人気がなくなった居間。書物に熱中しているローグは、窓掛けを下ろし忘れている。
 窓越しに、夕闇の世界が広がっているのがよく見えた。青と紫が混ざった闇の中、ぽつんぽつんと星が輝いている。

 星は、かつて天上に君臨していた神々の証だと聞いた。
 光と祝福で満ちていた天上の世界には、人と同じ数だけの神々がいたのだという。
 ある時、美しき世界のすべてを手にしようとした邪神によって、神々は封印され星となった。
 唯一、魔の手から逃れた女神パルシュナは、邪神を天上の塔に封印し、新たに地上の世界を造り出した。いつの日か、古の天上と同じだけの光と祝福に満たされた時、星になった神々が地上の世界に降臨する。偉大なる未来のため、女神パルシュナはまばゆい炎と化して天から大地を照らし。人と精霊を見守っている。
 そして女神が眠りについた夜は。女神に代わって星と化した神々が、地上の命を見守っているのだ……と。

 故郷の村には神殿や教会がなかった。覚えている神話は、絵本に描かれていた話だけ。
 最近になって博識な相棒に助けられ、わずかではあるが一般的な知識が備わってきたところだ。

 天高く輝く二つの星がある。
 十二年に一度、天に生まれる吉凶の星――。

 まるで真導士の行う奇跡のような。白く激しい輝きをこぼしている星の姿を、何の感情も抱かないまま見る。
 不安。恐怖。悲しみ。憎しみ。
 どれにも近いようでどれとも違う、妙な予感が胸を騒がせている。
 霧のようにただよう予感の中。青色の懐かしさも混ざっていて、自分の中で上手く落としこめないのだ。
 形は作れている。
 輪郭も保ててきたし、色だって着いてきた。
 確固とした自分が在るというのに、形の中へ抱いた予感を仕舞いこめず。もたもたとする。
(いけない、また……)
 そう、まただ。
 夜になると、おかしな考えが浮かんでしまう。だから夜は嫌いなのだ。自分が自分で在ることが難しい。大気の中。夜に流れる風の中、たくさんの声が響いている。ヒろって集メて、モッテイカナイト……。
「サキ」
 熱い腕に捕えられた。
 抱きしめられただけなのに、捕らわれたと感じたのはどうしてか……。自分はどこかおかしいのだなと、頭に事実を染みさせる。捕えられ。縛りつけられて戻れない。両腕を伸ばせば届きそうな場所なのに、彼方に高くて、ひどく遠い。
 ああ、でも……自分には戻る力が無いのだった。道を辿る力は、キエタママ――。

 唇を塞がれる。
 懐かしき世界が、熱に蹂躙されて、潰れた。
 届かない。戻れない。帰れない……。

「っ……」

 息が苦しい。
 熱に止められ、大気を受け入れる道が消えていた。右手で硬い胸板を押した。
 熱い……。
 熱に浮かされた瞳で、自分を焦がしている彼の姿を探す。きつく閉じられた瞼と、険しく刻まれた眉間のしわ。漆黒の黒髪が視界で揺れる。
「ローグっ……」
 今度は両手で身体を押した。
 本一冊分の隙間が生まれて、閉じられる。重ね続けた唇は、もはや温度を感じなくなっていた。羞恥よりも、理由の知れない焦りを感じる。
「離して、苦しい……」
「駄目だ」
 両手が壁に縫いつけられ、さらに熱を与えられた。
 唇から、身体から、与えられる熱と。真力を通して加えられる熱で、血が沸騰して大気に抜けていくように思える。
「や……、熱い」
 ローグの肩に顔を埋めた。
 肩の奥に広がる居間から、冷たい大気を吸って飲む。
 膜が張った視界に、ランプ色の食卓が見える。閑散とした場所を見つめて、焦点を合わせようと瞳に力を加えた。
 荒く呼吸をしていると、縫いつけられていた両腕が壁から切られる。
 思いがけない解放。床に落とされる恐怖に突き動かされ、両腕をローグの首に絡めた。
 熱色の鮮やかな呼気が、耳をくすぐる。

 それでいい。

 彼が発している無言の中、傲慢な声がある。
「く、るしい……」
 切れ切れに抗議をした。肩とローブを通した声は、くぐもった音に変わったけれど彼には伝わっただろう。
「突然、何てことをするのですか……」
「前もって言ったら、除けるだろう」
 不敵な返答に、追い打ちをかける元気は無かった。
「まったく油断がならない。放っておくと、すぐに俺から逃げようとする」
 逃げる、とは。
「……わたし逃げてませんよ?」
 自分も変だが、ローグも変だ。本当に夜はろくなことが起こらない。
「どうだか……」
 背中が、窓掛けが下ろされた音が触れる。

 ――今日も戻れなかった。

 知らない自分の声が、頭に走ってぎょっとした。しかし自分の動揺は、ローグの行動によって塗り潰される。
「……ローグ!」
 不敵な悪徳商人殿は、抗議に聞く耳を持たない。ローグの腕で荷物にされている自分は、乱雑に運ばれた上、ひょいと長椅子に落とされた。あんまりだと睨んでいるのに、彼はさらりと流して本を手にした。
 無視をする気らしい。
 根気比べでは勝機が見えない。普段は短気な部分が目立つのに、こういった交渉事になると人が変わるのだ。
 何とも商人とは扱いづらい。
「今度は何を調べているのです?」
 ローグと暮らすようになって、新たな技を身に付けた。その名を「諦める」という。
 どうしようもないことはある。村にいた頃には、諦めるようなことすら起こらなかったので、これも変化といえばそれに当たる。強欲な自分は、辛味も含む現実を、とりあえず受け入れておこうと決めた。
「真術の事件簿」
「この間も調べていませんでしたか?」
「分類としては同じだが、今度は少し違う。前の書物は、大戦以降のドルトランドで起こった事件についてだった」
 うん? と首を傾ける。
「では、他国のものまで調べはじめたのですか。それは、ちょっと……」
 大変ではなかろうか。
 また、無理をしなければいいのだが。
 こっそり心配をしていると、喉で笑いを殺したローグが、違うと小さく否定した。
 そして、開いていた本を閉じて渡してきた。分厚い本ではあるが、装丁はとても簡素だった。見てみろと促され、苦手な文字の解読に取りかかる。

「これ――」

「図書館の奥の棚にあった。隠している感じはしなかったし、貸出し口でも何も言われなかったから、持って帰ってきたんだ」
 得意そうな声を耳に入れながら、本の表題に触れた。そこには紛れもなく「サガノトス」と記されている。
「サガノトスの事件簿……」
「ざっと見てみたが、結構すごい内容だ。第三の地ができてから、去年までの間に起こった事件が、大小の区別なく記されている」
 ローグの解説によれば、"第三の地 サガノトス"が出来てからの足跡と、各年に起こった出来事の詳細が記されているという。この文献には、八年前に史上最年少の慧師が就任したことも記されていた。
「八年前の就任時に十九歳ということは……」
「シュタイン慧師は二十七歳だな」
 白銀の慧師は、想像以上に若い人だったようだ。言われてみれば、二十七歳に適した外見ではある。
「慧師が二十七ということは、バト高士も二十七だ」
「え、そうなのですか……?」
 あの人と慧師が同い年だと、何故ローグが知っているのか。問おうと思って黒を見上げたら、かかったなと笑っている悪徳商人殿がいた。
「へえ……、歳は知らなかったのか」
 ああ、やられた。
 突拍子もない話に、あっさりと引っかけられてしまった。間抜けなことをしたものだ。
「サキは居なかったから聞いていないだろうが、フィオラとかいう高士が言っていたんだ。慧師と同い年で力が拮抗していた。そんな理由で、他の誰よりも信頼が厚いのだと」
 とげとげしい口調ながらも、説明だけはしてくれる。説明をしている間中、黒の瞳には激しい炎が踊っていた。まずい気配を覚り、硬直しかけた首を本に向け、苦手な文章を読み砕いてみる。

 頭の方に数字が記されていた。これは四大国で共通して使われている年号だ。
 本は五年からはじまっている。"第三の地 サガノトス"は、大戦終結の五年後にできたとわかる。
 年号の下には、数行の文章が組まれていた。これがその年に起こった主要な出来事だろう。五年のところには、サガノトスができたことと、初代の慧師の名が記されていた。
 そこから下は、いっとう小さな文字が続いている。気をつけて見ていないと目が滑ってしまい、内容が理解できない。
「サガノトス誕生の年は、まだまだ波乱に満ちていたんだろう。他のどの年よりも、事件が多く起こっている」
 さらに言えば、悲惨さも他の年とは比べられないという。
 文字を追っていたら言葉を裏付けるような文面に出くわし、急いで頁をめくった。こんな歴史の上に、いまのサガノトスは成り立っているのか。女神が望んだ世界とは、ほど遠いと言えた。
「三十五年まで見てみた……。毎年毎年、飽きることなく事件が起こっている。ほとんどが高士の居住区での出来事。だが、導士が起こした事件もある。……ほら、こことか」
 三十年に起こった事件は、追放者が十人を数える事態になったらしい。
 一人の導士が、たまたま実習で訪れた町で忌憚を引き起こした。封印されていた過去の真術を発見し、興味本位で放ってしまったというのだ。
 真術の詳細は記されていない。ただその真術は、大戦中に民を虐殺する目的で編み出されたものであったようだ。放った当人を含め、死傷者が百人を超える大惨事が起こったとの記載がある。
「案の定と言うべきか。サガノトスが危険な場所であることは確かだな。抗争は毎年のように起こっているし、被害者が無事で済まない例も数多い……。正師の反応が薄いわけだ。これらと比べれば、導士の喧嘩などたかが知れている。里の上層から見ればかわいいものだろう」

 事件が起こるのは当たり前――。
 欲に飲まれ、力を振るうのも当たり前。
 真導士の里は、そういう形を成していたのか。やはりという気持ちと、サガノトスへの愛着が、相反して擦れて痛む。
「悲しいですね」
 幾重にも積まれた、悲しみと憎しみの歴史。
 自分達のこの時間も、残酷を記すインクとなって、紙の中に写されていくのだろうか。
「ああ、そうだな……」
 ローグの声が虚しく響く。
 どうしようもない衝動を覚えて、ぱらぱらと頁をめくって進む。希望を見つけたいと思った。悲しい歴史の中にも、心を和ませるような美しい時があっていいはずだと手を動かす。
 けれど、めくってもめくっても悲しさの濃度が変わるばかりで。幸福な気分となれるような記載は見当たらなかった。
 半分まで到達した時、現実に抵抗しようと本を閉じた。
「不安か」
「不安もあります。でも、悲しい気持ちが強いです。サガノトスにも、いい人がたくさんいます。それなのに……こんなことが起こるのが、悲しくて」
「そうか……、そうだな」
 本を脇机に置いたローグは、額に口付けを一つだけ落とし、もう休もうかと言った。虚脱した身体には、受け入れやすい言葉だった。無言のまま肯きだけ返す。
 促されて長椅子から立った時、重い音が床を伝っていった。
 脇机の本が、袖の布に引っ掛かって落ちてしまったらしい。「しまったな」とつぶやき、本を拾おうとしたローグが不自然な形で動きを止めた。
 慎重な手つきで本を拾い上げ、開いてしまった頁を凝視している。
 何事かとローグの視線を追う。そして、同じように目を見開き、時を止めた。開かれた頁は本の後方。つい最近のサガノトスを、記していたはずの位置である。
 そこにあるのは、塗りたくられた黒――。
 余白は存在していない。すべての情報が黒で塗り消されている。
「これって……」
「黒塗りだ。後世に残せない内容を、記した後から抹消している」
 一度は存在していた歴史が、唐突に失われた形跡。何者かの意志による情報の歪みが、目の前に広がっている。
 黒塗りは十頁以上にも及んでいた。ローグの手が忙しなく働き、最初の黒に到達する。
「十二年前……か」

 どくんと心臓が震えた。
 繋がってしまう。
 過去の時間と自分達のいまが、一つに紡がれていく。それは勘であり、正しく現実でもある。

 十二年前のサガノトス。
 一つ前"吉凶の年"で何かが起こった。何かはわからないが、後世に残せないほどの事件。

 その時と同じく。今年も天高くに"二つ星"が輝いている。
 白く輝きながらも静かに、静かに……。女神が造った大地を見つめている。
 逃れられない未来ならば先へ。
 そう、自分達はただ進み続けるしかないのだ。加護が届かぬ、その先へと――。

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