蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
白い花壇
広がる白い世界に、おかしいなと思った。
夢を見ているはずだ。これもまたおかしなことだが、夢を見ていると確信が持てた。
いつもであれば、起きてから夢だったとわかるのだけど……。自分はいま夢を見ていると理解していた。
さらにおかしいことに、ここは神殿ではなかった。
金の仮面の姿もない。途中だったから続きからはじまると思っていた。色々なことに裏切られ、呆気にとられてしまう。
しかし、呆気にとられているのは意識だけなようで、手は淀みなく一つの作業に没頭していた。
手の平で何かを包み、真術を籠めている。逃げるよりもずっと自分に馴染んだ日常。
青々とした草の上に腰を下ろしていた。見慣れた白のローブ。膝まである白の布に当たった日の光が、眩くはね返ってくる。
風が吹く。
両耳を隠すように垂らした添え髪が、風に乗ってふわりとゆれて……そこで、またおかしいなと思った。
添え髪と一緒に前髪がゆれた。髪留めはどうしてしまったんだろう。
落したのか、つけ忘れたのか。でも、つけ忘れはないと思う。毎朝、鏡台の前で髪を整えている。昔から髪留めだけは毎日つけているのだ。いまさら忘れるとは思えない。
けれど、現実として前髪は風に乗ってゆれているし、額の左側に感じられるはずの髪留めの感触もない。
変だな。おかしいなと悩む意識の影響など、まるで受けていない両手は、真術を丁寧に籠めている最中だ。
両手の周囲に輝く真円。
左に旋回する白の光も、いつもの通り。集まってくる精霊の気配がする。ふわりふわりと真力に惹かれて、真円の周囲を軽やかに舞う彼ら。
白の粒の愛らしさに目を細めて、またまたおかしいことに気がついた。左手首に、銀の腕輪が嵌っていない。
そこで、ああ……やっぱりと思ってしまった。
この夢も自分の夢ではない。他の"誰か"の夢なのだ。
早く、現実に帰りたい。たくさんの人の悲劇をなぞるのは、もう苦しい。
自分の見ている夢は、"誰か"の体験だ。夢でなぞった恐怖も痛みも苦しみも、すべて誰かが味わったものなのだ。
ベロマの時よりも数段に強くなった能力。これが原因なのはわかっていた。
身に余る力に慄き、憤る。どうしてこんな目に合うのか。嫌だ、嫌だと拒絶しても、眠気に飲まれて悲しみの壺へと投げ込まれる。
いらない。……こんな力はいらない。
望んでいたのは、輝かしい白の奇跡。半身とともに世界を駆けるための力だ。これでは世界を駆けるどころではない。日常すら共に過ごせなくなっている。
こんな、力――。
風が強く吹いた。
視界に埋め尽くされた白が、ざっと音を立ててゆらゆらと動く。
(マーディエル……?)
目の前に広がるのは、マーディエルの花壇。花姫が恋人のために撒いたといわれている、白い可憐な花。
花姫伝説の元となった白い花。しかし、いまでは藍と赤の花を好む人が多い。白のマーディエルだけが咲いている花壇は、めったにお目にかかれない。
おかしな夢の中に咲く、柔らかな白に目を奪われてみたかった。
残念なことに、自分の意識に反して視線は両手から動かない。夢で体験するのは"誰か"が刻んだ"いつか"の記憶。
自分の意識は、その記憶の上に乗っているだけ。望んだとしても指一本とて自由にはならないのだ。
投げやりな気分で、動かない視線を受け入れることにした。……夢だとわかっているだけでよしとしよう。
「これで……いいのかな?」
夢の主が呟いた。
自分が乗っている"誰か"が、心許ない声を出したのだ。若い娘――どこかで聞いたことがある声だった。
娘が両手を開く。手の平にあったのは茶色の粒。
(花の種?)
もしかしてマーディエルの花壇は、この娘が育てているのか。すでにたくさんの花が咲いているというのに、この娘はまた種を植えるつもりらしい。
それにしても、何をしているのだろうか。
花を育てているのはわかるけれど、種に真術を籠めている。
「今度こそ、上手くいくといいな」
娘の感情と自分の意識が重なる。花が開くのを楽しみにしている。期待が胸で幅を広げた。
花が開くのを楽しみにしていると同時に、何かを期待しているらしい。夢の中はもどかしい。感情も思考もわかるのに、重なっている"いつか"の思考にしか触れられない。前後がわからないから、何を期待しているのかまではわからなかった。
遠くから鐘の音が聞こえた。
娘は、もうこんな時間と思った。娘の思考に触れながらとても驚いた。
――"闇の鐘"だ。
真導士の里で、毎日鳴り響いているあの鐘だった。
聞き間違いではない。真導士の里の鐘は、町の鐘よりもずっと深い独特の音色なのだ。
ここはサガノトスだ。
そして自分が乗っている"誰か"は、サガノトスに在籍する天水の――導士の娘だ。
驚き過ぎて、気絶するかと思った。しかし、さすがは夢の中。眠っている最中に、気絶ができようはずもない。
今回の夢は本当におかしい。
見てきた夢はいつも古い時代の夢だったのに。町の場所すら定かでない大昔の話だったというのに……。
帰ろう。娘は思った。
そうしたら、後ろから草を踏みしめる音と共に声がした。
「ここだったか」
意識が凍った。
次いで、嘘だ、という絶叫が意識の中を走り抜けていった。
何故、夢の中でこの声が聞こえてくるのか。混乱を極めた自分の意識など、娘は考慮しない。
喜びにあふれた心を抱え、大急ぎで立ち上がった。
「迎えに来てくれたの?」
草を掃い、身なりを整える娘の耳に、草を踏みしめ立ち去る足音が聞こえた。
行っちゃう。
娘は慌てて足音の主を追いはじめた。
視界が切り替わる。白の花壇から外れて、足音が進む林へと振り返ったのだ。
振り返った視界に茂った樹木。
樹木の合間から覗く遠景に、学舎と中央棟が見えている。
「――待って」
聞こえているだろうが振り向きはしない非情な背中を、急いで娘は追いかける。
(……待って)
意識の中で、自分も呼ぶ。
前を行く人影。膝に掛った白のローブの背中と――深く濡れた青の髪。
知っているよりも短い髪は、紛れもなくあの人の色だ。
(待ってください――バトさん!)
目が覚めた。
自室の天井が見える。そう、確かに夢を見ていたのだった。
左手の甲を額に当てる。自分の手首には、当たり前のように輝く銀の腕輪。
(……何で?)
導士のローブを羽織っていた。
いつもの如く過去を夢に見ていたというのなら、正確な年数がわかる初めての夢だ。
あの人は二十七歳だとローグが言っていた。そして真導士が導士の位にいられるのは、たった一年しかない。
十二年前のサガノトス。
考えてみればそうだ。十二年前ならばバトは里に在籍している。
黒塗りにされた歴史を、あの人ならば知っているはず。どうして頭が回らなかったのだろう。
一人悶々と抱いていた疑問。あの人に聞いてしまえば早いではないか。
鏡台に視線を移す。郵送されてきた時のままにしてある金の腕輪。腕輪が入った小箱には、送り主の所在は書かれていない。サガノトスの中であれば、名前と位と系統を書けば相手に届く。もしも同じ名前があったとしても、髪と瞳の色を窓口で言い添えれば大丈夫だと聞いた。
いまなら眠気が治まっている。大慌てて寝床から飛び出した。
寝床の脇机には、ローグが置いたままにしているペンとインク壺がある。それらを手に取り、あまり使う機会がない文机に向かう。便箋と封筒は余っている。村長に手紙を書いた時の余りは、捨てずに取っておいた。
この時、ついに一歩を踏み出した。
流されるまま、受け入れ続けていたそれらに向かって、自ら一歩踏み出して進んだのだ。
十二年間、沈黙を続けていたすべてが、怒涛の勢いで動き出した。
広げられた便箋に、黒のインクが落とされる。漆黒に濡れた文字が、未来をどのように彩るのかは知らない。
知らないままでいいと思っていた。