蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
影の兆候
呼吸が荒い。
辛そうに寄せられた眉根に、一筋の汗が落ちていく。
ローグは、長椅子の上で何かに耐えていた。掛け布を握り締め。時折かぶりを振って、苦しそうにもがいている。
「痛むのですか……?」
――違う。
言葉にすらできないらしい。気配と仕草だけでの応答がきた。
どうして……しまったのだろうか。
さっきまでは、だるそうにしていただけだったのに。急激に機嫌を降下させたあげく、ヤクスと正師を追い返して。
普段の彼からは、想像もつかない対応だ。
我慢していただけで、本当は強く痛むのだろうか。彼は弱音をめったに吐かないから、自分がそれに気づいてあげられなかったのだろうか。
相棒の名を呼ぶ。筋が浮かんだ手を労わろうと手を伸ばしてみれば、強い力をもって身体ごと引かれた。
準備ができていなかったせいで、咄嗟に息を詰めた。
肺が圧迫されている。
息が苦しい。
腕の中に囚われた状態で、荒ぶる真力に飲み込まれる。
音が遠くなり耳鳴りがしてきた。耳鳴りの合間に風の音がする。隠されている羽が、危機を感じ取って震えている。
「ロー……」
真力の圧に塞がれて、まともに言葉を紡ぐことすら難しい。精一杯の呼びかけも、彼には届かない。
呼吸が止まる。
荒波で溺れかけている中、黒の瞳を見た。
燃え盛る炎。
奥に広がる影。
禍々しさすら漂わせて睨んできている……黒。
背中がぶるりと震えた。解放を望む本能に負けそうになる。唇に歯を立てた。自分を保つために痛みを加える。
いけない。ローグに。そして自分に負けてはいけない。
薄くぼやけた世界でたった一つの色を追いかけた。視界が鈍るその直前に見えていた色。湖面のように穏やかな黒が、淡く滲んでいた。
「だ、いじょうぶ……」
大丈夫だから。ここにいるから――。
気配に乗せて恋しい人に注ぐ。真力を注いだ分だけ、力が緩んだ。
真眼を開く。
気持ちのままに力を放ち、彼の周囲に巻いていく。
「ね……、大丈夫ですから」
瞼を閉じてゆっくり開く。
黒の中にある想いの炎が、影に蝕まれている。虫に食われてしまった青葉のような炎を、気配でやさしく撫でた。
彼が身の内に飼っている影……。影のせいで彼の気持ちへ辿りつけなくなっていると悟った。影の気配をかき分け、かき分けて……影の奥にいた彼を見つける。
目が合ったと思った時、恋しい黒が焦点を結んだ。
「サキ、俺は……」
言葉を制して首を振った。
いまの彼から紡がれる言葉は、きっと正しくない。
「俺……。違う、どうして……?」
違う、違うと頭を抱えて、髪をぐしゃぐしゃにかき回しはじめた。
ついにほどけた拘束。自由になった両手でローグの頬を包んだ。
触れるだけで緊張を走らせたローグに笑顔を向ける。苦しそうな表情は相変わらず。その表情を見て、ぬくい気持ちがあふれ出てきたのはどうしてだろう?
また、知らない感情が顔を出した。
名前は何というのだろうか。ゆっくりと考えて、その内ちゃんと名づけてあげよう。
「真眼を開いてください」
遠慮がちに開かれた彼の世界から、影を含んだ気配が飛び出してきた。
こんなにたくさん抱えていたのか……。
この影が、ローグの真力を食べているのだ。彼を痛めつけているのだと、憎たらしく思った。
額を触れ合わせるため顔を近づける。
それを彼が押しとどめた。近づくなと言い、せっかく開いた真眼に蓋をしようとする。
「駄目です」
強引に額を合わせた。力を込めたせいで勢いがつき、ごつんとやってしまった。
……痛い。
でも、いまは我慢の時だ。
真力の海――。
枯渇してしまった彼の世界に、影が舞っている。
変だ……。昨日までは全然視えていなかった。どこから沸いて出てきたのかと腹を立てた。
人の恋人の内に、勝手に進入してきて荒らしまわっている。
実に悪い子である。
しかしこの気配、どこかで覚えがあった。いったいいつの記憶だったか。
触れて確かめようとすれば、もう少しのところでかわされる。
まんまと逃れた後、まるであざ笑うかのようにふらふらゆれる。……この子、あまり性格もよろしくない。
埒があかないので、この際だから無視をすることにした。
悪い子よりも、荒らされて傷つけられた恋人が心配だ。
影に食い荒らされた海の世界に、ほろほろと光がただよっている。海の残骸と思しき光に手を伸ばす。触れただけで、喉の奥が焼けたように思えた。
ローグはいったい、何を隠しているのだろう。
語らない選択をした理由。彼の心が読み解けなくてもどかしい。頬に当てていた手を、ローグの後ろ側に伸ばした。手に漆黒の髪の感触。張りのある黒髪の下には熱い体温。
大好きな人をぎゅっと抱きしめる。
息を吸った音が耳の近くでした。
深くは考えないようにして、生まれたばかりの気持ちと一緒に彼を包む。
「わたしね……。貴方がすごく好きです」
言葉にすると胸の奥にある熱さが増した。恥ずかしいけど伝えたい。自分はどこまで強欲になれるのか、試してみたい。
「知っていましたか?」
何て照れくさいのか。でも、この拙い感情すらも色鮮やかで……目を細めてから微笑みを浮かべた。
腕の中にいる恋人から強張りが取れる。静かな呼吸が聞こえてきて、達成感を密かに味わった。
「……知らなかった」
ぼそりと呟いたローグ。声と共に低い振動が響いてくる。
「気づいてなかったのですか」
「俺は……気配に鈍いから」
腕の中で笑う気配。
胸も顔もじんじんと熱くなる。じっとしていることができず、黒髪を梳いて流した。漆黒の彩りが目にまぶしい。
「……さすがに鈍すぎです」
「面目ない」
二人して笑う。
幸せにはこんな形もあったのだ。
新発見に心を躍らせていると、腕の中にいる彼がもぞもぞと動いてこちらを見た。ローグに見上げられる日がくるとは……。サガノトスでの毎日は、驚きの連続である。
もうどうにでもなってしまえと額に口付けた。
ローグが笑う。笑いながらも耳のふちを赤く染めていく。やはり彼も照れ臭いらしい。
「サキには……敵わないな」
降参だと言って目を閉じた。
一転して眠そうな表情となったローグの髪を、もう一度だけ梳いた。
「振り回されるこちらの身にもなってくれ」
つくづくといった様子でぼやくものだから、面白くなってしまう。
「猫の相手も大変ですね」
まったくだと返したローグは、それからすぐに眠りへと落ちた。