蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
邂逅と回想
(どこだろう……ここ)
自分は一体、何をしていたのだろう。
暑さのせいにできない汗を流して、帰り道を探す。探してはいるけれど、道はどこにも見当たらない。
バトの家がどこにあったか、方向がわからなくなってしまった。
たらたらと汗を流し、ううむと唸る。
……困った。これは絶対にお説教されるだろう。
冷たい青銀の輝きを思い浮かべ、必死で帰る方法を思案する。
まず真眼を半分だけ開いて中央棟の位置を確認した。
それで、里の西側にいるのは確実だと理解した。だが、そこまでだった。いまになって自分の特性を思い知ることとなった。
どうも自分は方向に疎いようだ。
大雑把な方角はわかる。でもそこから、元の位置を推察することが一切できない。
それもそのはずで。自分の生活圏は、里に来るまであの小さな村で完結していたのだ。
聖都にくるにも馬車を使っていたし。いまはローグにまかせてしまっている。一人で出かける時は、転送が敷かれている神殿の周囲にしか、足を運ばない。
見える範囲だけで動いているのだ。目的の建物が見えなくなってしまっては、もうどうしていいやら……。
おろおろと木々の隙間を覗き込む。
無駄なのは知っている。ちょっと首を伸ばしたくらいで家が視認できる気がしない。
どうしよう、どうしようと行ったり来たりを繰り返している内に、少し開けた場所に出た。
強い既視感を感じる。
思わず茫然と立ち尽くしてしまった。
そこは花壇だった。サガノトスは樹木や草に覆われている土地なので、もちろん花はどこでも咲いている。しかも、いまの季節は夏。大地に産み落とされた命達が一番華やぎを誇る季節。きっと誰もめずらしいとは言わないだろう。
すうっと風が抜けていった。
柔らかく、やさしく流れる風は、まるで春のそよ風のようだ。照りつける日差しの存在さえなければ、春だと勘違いしていたのではなかろうか。
風が、大地に咲く小さな命をゆらした。
ふわりと花の甘い香りがただよってくる。
この香りは、前に出会ったことがある。記憶の中で鮮やかに咲いている。夜空の華と共に場を飾っていた香りだ。
白いマーディエルの花壇。
これが実在していたとは……。
夢の中の出来事は、サガノトスに刻まれた過去の出来事だと推察していたけれど。それでもあの夢だけは半信半疑だった。他の夢と毛色が違い過ぎたというのもあるが、自分が信じたくなかったというのが本音だろう。
しかし、この花壇がある以上、否定は通じそうにもない。
花壇はレンガで囲まれている。一段だけのレンガは、囲むというより境界を示しただけといった風だ。ここも夢とまったく同じである。
あえて言うなら、夢で見た時よりも崩れている。
時間で腐食した跡を見つけ。どうしたらいいのかが、ますますわからなくなった。
とにかく混乱した頭をどうにかしよう。ゆっくりと深呼吸をして……とりあえず座ってみようか。言い逃れ気味に浮かんできた考えに、そうだ、そうだと重ねてから、そっと腰を下ろした。
はたから見れば、その光景は微笑ましく映っただろう。
娘が花を愛でている。そんな光景を勝手に作ったのだ。自分はそんなことは知らなかったから、ただ座っているだけだと思っていた。自分が作り出した景色は、見る者が見ればとても衝撃的で、深く心を穿つ光景だと、この時の自分では知る術はどこにもなかった。
だから。
突然、後方から放出された気配に触れた時は驚いた。
嘘だと思い、振り返り。自分の後ろで、死者と出会ったかのような顔色で立っている人を発見し。しかも、その人物が誰なのかを知って、飛び上がるほど驚くはめになったのだ。
樹木を背に、気配を探る。
ヤクスの気配はどこか。ずいぶん前に途切れたきりになっている。
これは早々に討ち取られたな。どこかで伸びている可能性が高いと予想を立てた。
しかしまあ、ここまでの差があるとまでは想定していなかった。強いとか弱いとか、そんな話にもならない。近づくのはもとより、攻撃の機会すらないに等しい。逃げ回るのに手一杯だ。
隙を見つけようにも姿を捉えきれずにいる。真力は感じている。そこらじゅうに撒き散らされた真力が、霧のようにただよっているのだ。
完全に術中に嵌ってしまったと歯噛みをした。
燠火に懐く精霊は気が荒い。燠火と燠火で争えば、より強い真導士に懐くと言われている。
問題は何を真導士の強さとするか。導士との争いなら単純に真力量だけで済むが、相手が上位真導士の場合は通じない。
精霊はより強い力に。言い換えれば力を存分に奮える真術に懐く。
いまの自分とあの男を比べれば、どちらに懐くかは火を見るより明らかだ。多重真円を描けないのはここまで不利なのかと、悔しさを積み重ねていく。
初動で放たれた強烈な真術の意味。
あれは自分達を打ち負かすためではなかった。精霊達に己の力量を示したのだ。
その証拠に、後手に回ってから放った真術はいつもより数段力が劣っていた。ここら一帯にいる精霊達の支配権を、完全に握られたと見るべきだろう。
さて、どうするか。
少しでも時を稼ぎたい。一発で勝利に辿りつくことは不可能。だとすれば少しでも相手を知るのがいい。
考えをまとめて、枝葉の影から上空を覗こうとし。思ってもみないほど近くで気配を捉えたため、身体を大地に転がした。
「くっ……!」
真横から鋭い風が駆け抜けてきた。旋風とは様相が違う。まるで刃が投げつけられてきているような風だ。
切り裂かれた樹木の年輪を眺め、肝を冷やす。
果たしてヤクスは伸びているだけだろうか。不吉な考えを否定するのがやや難しい。
「余所見している場合か――」
上空からの声を受け、本能だけでまた大地を転がり、どうにかこうにか攻撃を回避する。体勢を立て直し、さっきまで自分がいた男の足元を見る。眩んだせいで薄暗くなった視野の中、ざっくりと裂かれた大地が見えた。
正師が介入すると宣言していたけれど、果たして間に合ってくれるのか。思考と連動したらしく頬の筋肉がわずか引きつった。
真眼から盛大に真力を放ち、精霊を呼びつけて旋風を生む。
上空に出たら終わる。そう考えて低空をひたすらに飛び続ける。
樹木の合間を縫い、距離を広げていく。自分の真力に食いついてきた精霊達の数は少数だ。この手駒でどう戦うか。戻ってきた思考を全力で回転させる。
(何事にも穴がある。当然さ。ここは女神が造り損ねた世界なんだ)
長兄が常々言っていた言葉。
どこか飄々とした兄の言葉は、変に生真面目な両親の言葉より、ずっと自分に馴染みやすかった。
(無理だ、無茶だと言われたら、黙って目だけ凝らしておけ。周りの口は塞ぐなよ。むしろ盛大にしゃべらせておけ。それが相手の慢心を誘う。慢心はよく生まれる大きな穴の一つだ)
家で、船の上で、行商の途中で刷り込まれた言葉を反芻する。
(どんな大店にも穴はある。これも当然。店を作っているのは人。人の中で、穴を持ち合わせていない奴はいないんだから。例え王だろうが神官だろうが、それこそ――)
――真導士だろうが。
十分距離を取ったところで後ろを振り返る。白の奥に冴えた青がある。
男を見据えて、構えを取った。
次はどう動くか。全身の感覚を総動員して、決して見落とすまいと目を凝らす。
(でもな、ローグ)
記憶の中で笑う兄。この話の最後はいつも同じ下りだった。
年寄り臭いと混ぜ返していたことを、こんな時に思い出す。
(一度で上手くいくことなんか稀。失敗するのが普通。考えればこれも当然で、自分の穴ぼこなんざ誰も見せたくないんだからな)
白が重ねられた。二重、三重……。
逃げ道を探りつつ、すべての感覚を尖らせる。
(見ただけでわかる相手なら楽だろう。でも、さらさら素振りを見せない難敵もいる。こういう相手には、隙を見せるまであの手この手をぶつけるしかない。何、失敗だけなら金はかからん)
くる。
予感に従い、旋風の壁を生み出した。
(好きなだけ続ければいい。懐が痛まないようにしておけば、何をしてもやり直せる)
生み出した旋風の向こうで、予想外の気配がした。
転送の真術だと気づいた時には一呼吸遅かった。
真上に渡ってきた男が、その右手に白い真術を携えているのがよく見えた。避ける暇があるはずもなく、青銀の激しい輝きを追うことしかできなかった。
(生きてさえいればな)
衝撃で白く焼けた頭に、爺臭い口癖だけが残された。