蒼天のかけら  第十章  晦冥の牙


彼女の


 路地には三人だけ。
 他には誰の姿もない。両側をレンガで囲まれた場所は窓も見えず、自分達の声だけが響く。

「お前、これをどうしたんだ」
 怒り心頭の彼は、ユーリに詰問を続けている。
 同じ問いはいまので三度目。
 しかし、これにも返答はなかった。問われているユーリはいまにも泣き出しそうな顔のまま、口を曲げて無言の抵抗を続けている。
「これがどういうことか、わかっているのか」
 先ほどよりも一段と低い問いが出た。成り行きを見守っているだけで心臓に悪い。
「返して……」
「買ってきたんだろ。お前、自分が何してるかわかってんのかよ」
「返してってば」
「駄目だ」
 球を打ち合うような応酬が続く。
 割って入りたいが、どこで入ろうか。呆然としてしまうほどの密度で二人のやりとりが続いている。
 路地から通りを行く人の姿が見えるけれど、誰もこちらの様子には気づかない。完全に忘れ去られた路地で、味方を見つけるのは難しいようだ。
「鏡を割ったのはクルトでしょ。自分が悪いのに、いじわるしないでよ!」
 はらはらとしながら、赤毛の友人の出方を窺う。
「町から出る時、おじさんに言われただろ。何度も言われたのに勝手なことすんなよ」
 クルトの言葉に、ユーリの顔がいっそうゆがんだ。

 困った。
 どうしたらいいのだろう。

 喧嘩の仲裁も初めての体験だ。
 村長がやっていたことを思い出そうとしても、焦りが記憶をかき乱して邪魔をする。
「いたずらばっかりして、おじさんにもお父さんにも怒られてたのはクルトじゃない。急に大人ぶったって説得力ないんだから。しきたりだって面倒くさいって言ってたでしょ!」
「うるせえな、昔の話をほじくり出してくるんじゃねえよ。お前こそいい加減に理解しろ。やっていいことと悪いことぐらいあるに決まってんだろ」
「町の中だけの話じゃない。他の娘だって、買い物できないなんて嘘みたいって言ってたよ」
「馬鹿っ、里で町の話はするなってあれほど言ったじゃねえか!」
 きつく言われてさすがに怯んだユーリが、泣きそうな顔で自分を見て――また噛みついた。
「クルトだってサキちゃんに話したんでしょ? 同じことしているのに、わたしばっかり怒るのは変だもん!」
「同じじゃねえって」
「同じだよ!」

 まずい流れだ。

 収まるどころかどんどん気配が荒れていく。
 幼馴染の番は、二人して真力が高い。真眼を閉じていても大荒れになっている真力が感じられる。どちらかと言えばクルトの方がまだ冷静だ。しかし、それもいつまで持つのか。
「二人とも落ち着いてください」
 搾り出した情けない台詞は、荒れる二人にあっさりと無視された。
「いい、これは処分するからな」
「勝手なことしないで!」
「勝手なことしたのはユーリだろ! 面倒事になってからじゃ遅いんだ」
「もう十分面倒になってるもん。わたしの給金で買ったんだよ。人の物を盗る方がずっといけないことじゃない!」
 幼馴染の手に収まっている鏡を取り戻そうと、ユーリが腕を伸ばして暴れ出した。しかし、残念ながら男女の違いは明確で、逆に壁際へ抑え込まれてしまう。
「痛い、痛いよ! 離して、返して!!」
「いい加減にしろっての!」
 一喝したクルトはこちらを見て、抑えてくれと頼んできた。
「で、でも」
 そんなこと言われても困る。
 何せユーリはいまにも泣き出しそうだし、彼女の気持ちだって痛いくらいわかる。
 どうにか平和的に収まらないか。慣れぬ思案にふけって固まっていたら、クルトがこちらの窮状を察したようだった。
「サキ、ちょっと離れてろ」
 片手でユーリを抑えていたクルトが、高く手鏡を掲げた。

「やめて!!」

 咄嗟に退いた自分を確認して、手鏡をレンガの壁に投げつける。
 ユーリの悲鳴と一緒に、鏡が派手に割れる音が路地中に響いた。
「ク……、クルトさん」
 問題の品を破壊したクルトは、そこでやっとユーリを解放する。
 ひどいと叫び、割れてしまった鏡へ向かうユーリを無表情で眺めて、小さく吐息を出した。
「自分で買ってきちまったもんだから、こうするしかねえんだよ。家に持って帰らせちゃまずいんでな」
 淡々と説明した後、腰に下げていた皮袋から黄色い粉末を摘んで取り出し、道に撒く。
 これもしきたりなのか。とても聞けるような状態ではない。
 路地の雰囲気は最悪で、どうにも息が詰まる。
 通りよりもじめじめとした大気がユーリの泣き声と相まって、より悲壮感を強くしている。
 粉を撒いているクルトをじっと眺めていたら、割れた手鏡が飛んできた。投げつけられた手鏡は、作業に没頭していた赤毛の友人の背中で、鈍い音を出してから道に転がる。
「ユーリ!」
 枠だけになった代物だとしても危険だ。
 これは咎めようと彼女を見て、続けるべき言葉を失う。
 桃色の瞳が滲むほどいっぱいに涙を溜めたユーリ。彼女は全身を悲しみで染めている。明るく元気な彼女が見せた初めての怒りに、思わず怯んだ。

「もういやだ!!」

 叫んだ声が、壁をつたい空に抜けていった。
「よーく見てみなよっ。みんな自分で買い物をしてるじゃない。それが普通なんだよ!? 欲しい物があっても自由に買いに行けない。かわいい物を見つけても、自分で買って帰れない。わたしだって普通に買い物を楽しんでみたい。そう思ってどこがいけないの!!」
 粉々に割れたかけらの上に、ぽつん、ぽつんと涙が落ちていく。
「わたし、もう町には帰らないもんっ。どこか遠くの……っ、しきたりなんて誰も知らないような遠くの場所に行く。鏡だって、髪飾りだって。他の町の娘がしているみたいに自分で選んで、自分で買って楽しむのっ。絶対にそうするんだからっ……」
 しゃくり上げながらの抗議の間中、ユーリからは大粒の雨が降り続けていた。
 泣き続けている彼女を宥めようと、手を伸ばして背中をさする。
 苦しそうな呼吸の合間にクルトの様子を窺えば、無表情なままユーリを見ていた。
「せっかく町から出られても、クルトがいたら何も変わらないっ。――ガルヤもクルトも大っ嫌いっ!!」
 まなじりを上げ、たくさんの雨粒を降らせたユーリは、路地の向こうへ走り去っていく。
「ユーリ!」

 仲裁したかったのに何もできなかった。これでは本当に役立たずだ。
 後悔と心配が胸いっぱいを占め、動悸が強くなった。何もできなかった残念な自分にできることは、どうすればと友人に縋ることくらいである。
「……重ね重ねで悪い。追いかけてくれねえか」
 腰を屈めて、鏡の破片を拾い集めながらクルトが言う。
「片づけて行くからよ」
 ぼそぼそと言った彼は、粉々になったかけらを手鏡が仕舞われていた袋の中へ放り込んでいく。
「近くにいる。泣き顔を人に見られるの嫌がるから、大通りには出ないさ」
 地面に散らばっている中でも一番大きな破片を手にし、少し傾けるようにして見てから袋に入れた。
「頼む」
 赤毛の合間で、額飾りを支えている紐がゆれている。小さく震えているその様は、ユーリの添え髪を思い出させた。
「……わかりました」
 伝えたかった言葉があったのに、結局は飲み下した。

 クルトは言われなくてもわかっているだろう。きっとそうに決まっている。

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