蒼天のかけら 第十章 晦冥の牙
獣の巣
「上の空のようだ」
世間話のような叱責が耳に届いた。
事実、上の空だった。返す言葉がない。
「肝が座っているのはいいことだ。油断さえしなければな。どれだけ経験を積んだ手だれだとしても、油断で身を滅ぼす。それはお前がよく知っているはず。そうだな、ローグレストよ」
キクリ正師は、先日の記憶を突いて自省を促してきた。勝利の余韻に水を差された気分になる。
苔が生えた井戸の周囲は、風を通していない倉庫と同じような匂いがしていた。
「大丈夫でしょうか」
今回の実習は捕物の補佐。
内偵を進めていた大物の巣を暴くというもの。正面側は高士達が配されている。自分の担当は、すでに発見されていた抜け道の監視。
頭上から苦笑が返った。
「任務中だぞ?」
「わかっています」
正師がついていると言っても、里の外に変わりはなく。自分の置かれている状況の方が危険なのも理解している。
「一切の危険がないとは言わぬが、大丈夫だ。慧師がいいように図ってくださっている」
正師達の慧師に対する信頼は厚い。
それに乗っかってしまえば楽になれる。さりとてそれも難しい。何せ彼女はことごとく想定を覆す。
不安の石を腹に抱え、配られた人相書きに再び目を通した
。
配られた十枚の紙に描かれているのはすべて人買い――灰泥どもだ。
周囲の町から娘が消え出したのは、春を過ぎた頃からと聞いた。
捜索の手は伸びているだろう。
しかし、どれだけの娘が親元に帰れるのか。
「これで全部ですか」
「一応は。しかしな、こればかりはいたちごっこなのだ。巣を潰しても必ず新手が現れる」
夏の捕物はもはや毎年の恒例行事という。腹立たしいかぎりだ。
「夏に行うのは理由があるのでしょうか」
「ああ。収穫祭の前が一番危険なのだ」
豊作の年なら、金にものを言わせて強引な嫁取りをするものがあらわれ。凶作の年なら、怪しげな呪術や隠れた祭事が行われるという。
どのような年であれ女は貴重品。
ドルトラントに限らず、為政者の頭痛の種となる。
不思議な感覚だった。
自分達の直面している問題と関わりなく、里の外ではよく見知ったいつも通りの日々が流れている。
「ローグレスト」
またもや叱責かと、正師の顔を見上げた。
木々の影も深いところにあって、キクリ正師の顔に濃い日の光が差している。
「先の影に飲まれるな。姿見えぬ内に想像を巡らせれば、かの者に心の理を取らせてしまう。何事も目の前のことからだ」
明朗な物言いが終わると同時に、井戸の蓋が静かにずれた。
耳元で「呼吸を」と囁いた正師に合わせ、息を整える。目の前で起きることへ、神経の全てを注ぐために。
「ユーリ!」
最後の最後まで俯いたままだったユーリは、頑丈な鉄扉の奥に閉じ込められてしまった。
「一人だけだったのは惜しかったな」
「いいさ。一人いただけでも儲けものだ」
縄を引かれて連行される。強く引かれた際、手首に食い込んできて骨が軋んだ。
そこかしこの壁に、濁った水が流れてきている。
じめじめとした大気に満ちた地下通路は、とても奇妙な場所だった。
ほのかに白い光を放っている壁と、レンガやむき出しの土で覆われてる箇所が、不自然にごちゃごちゃと繋がっていた。レンガでできた通路の天井は木材で覆われている。白楼岩で造られている場所はわずかだ。
「今日中に売り払うぞ」
「それがいい、ガルヤの連中に感づかれると厄介だ」
「最近は憲兵も力を入れてきている」
「……そろそろ潮時だな。大物がかかったことだし、早々にここは引き揚げちまおう」
力の弱い娘が相手。
しかも自由が奪われていることもあって、男達の口は浮かぶ雲よりも軽い。
「客人は揃ったのか」
「おうよ、大盛況だ。よかったなお嬢ちゃん。今日はど派手な晴舞台になるぜ」
ぬっと近づけてきた顔を、口を引き結んでから逸らす。
「……可愛げたっぷりだな、まったく」
嫌味ったらしく言い、ぐいと縄を引っ張ってくる。
向かう先にはぼろぼろになった木製の扉。
扉の向こう側には柄の悪い男ばかりが、二十ほどいた。狭い上に熱気がこもっていて不快感が強くなる。つんとした汗の匂いが胃を刺激し、わずかに痛みを出した。
壇上と言っていいのだろうか。
木の箱を適当に並べて置いてあるその場に、引き立てられる。
視線が自分に集中したのを感じた。
「さあて、今日の特売品だ。若い娘はどこでもご入用。しかも、どうだい。まったく世間ずれしていない修道女見習いだ」
嘘っぱちである。
見習いは見習いでも真導士だ。
「まずは千からはじめよう」
この言葉を皮切りに、方々から声が上がる。
どの男も気分の悪くなるような笑みを浮かべて、数の争いに夢中になっている。
外に出たら通報しようと考え、それぞれの顔をじっくり観察する。
耳鳴りは近くなったり遠くなったりと変化が大きい。疲れてきたのか、頭の奥が鈍くなったような重さを感じる。
――灰泥商人。
黒髪の相棒が嫌っていたのも頷ける。
人を競り落とすことを躊躇いもせず。それどころか大喜びで買いつけようとしている。
例え天水であろうとも真導士だ。絶対に一矢報いてみせようと、決意を岩のように固める。
「五万だ」
手を上げたのは隅にいて、いままで一度も金額を提示しなかった男。
短いこげ茶の髪と、きれいに整えられた顎鬚。
額には大きめの布地が額に巻かれている。隠すように巻かれた布のせいで、額飾りが見えず、素性もさっぱり分からない。
ややだらしなく着崩された上着と、妙にきちりと上げられた腕。そのちぐはぐさが強く印象に残った。
出された額が高かったのか、他の灰泥達からざわめきが漏れてきた。
「七万!」
当てつけるように張られた額を受け、呻き声のようなものがいくつか落とされた。
「十万」
微笑すら浮かべて重ねられた額に、先ほどの灰泥が唾を飲んだ。
壇上で自分の横に立ち、場を仕切っていた男は、どうするのかというようにその灰泥を見た。
他の者達はすでに争いの舞台から降りたようだ。
「十二だ!」
「十二万五千でどうだ」
張り合っていた灰泥が大きく息を含み、ぼろの扉が割れるような声を出す。
「ええい、ならば十五だ!」
勝ちを確信したのか、値を競っていた相手に向かって薄笑いを浮かべた。
木箱で作られた壇上の脇には、錆びが目立つ蝋燭立てがある。ゆらゆら炎が揺れて、後方の壁に不気味な影が躍っている。
静まった場。
隅に立っていた男が一歩足を出した。その風体から想像もつかないような静かな所作で。
「――では、二十だ」
こいつで手打ちだなと、壇上の男に確認を取った。
男が大きく手を打ち鳴らし、競りの終わりを告げ、ぐずぐずに溶けた蝋の上で炎が大きく踊った。
どうやら、自分の行く末は決まったようだった。
男が歩み出てくるのと同時に、他の灰泥達が扉から退出していく。
最後まで競りに参加していた灰泥は、扉に苛立ちをぶつけてから出て行った。……なるほど扉がぼろになる訳だ。
「確かに二十万。お客人、いい買い物をされたね」
「ご贔屓さんに頼まれていてな。きた時期がよかった。お前さん達は、しばらくここにいるのか?」
「さあて、水の流れのままに、だ」
「そうかい。できればあと二、三は見繕いたかったが……。他を当たるとしよう」
さあこいと、強く乱暴に引かれた縄。
手首に感じた痛みと、浮かべられている微笑。整った歩き方とずぼらな格好。
強く疑問を抱いた。
抱いた疑問に対して、何かを告げるように額が激しく疼く。