蒼天のかけら 第十一章 神籬の遺跡
触らぬ医者に
ディアの泣き声が聞こえる。
干してあった麻布を流水ですすぎ、桶の中へ沈めた。
泣き声の合間に、ヤクスが宥める声もしている。
頼もしい限りだ。
長身の友人は冷静そのもので、心臓を騒がせている自分とは大違い。
病人、怪我人を前にしたヤクスは、普段ののんびりした彼とは別人になる。いまだってディアが泣こうが暴れようが決して動じることなく、役目を淡々とこなしている。
少し前に、かの友人の相棒が "意外性の塊" と評していた。正鵠とはその気配もさることながら、性格もつかみどころがないようである。
聞こえてきている泣き声が、また高くなった。
宥める声も続いている。
桶に水を満たしたのはいいけれど、どうしようかと悩んで動きを止めた。膝の鈍痛が、罪悪感を加速させる。
ディアは見られたくなかったのだ。
誰にも醜態をさらしたくなかったのだ。自分だって同じ年の娘。彼女の気持ちは理解できた。唯一の幸いはイクサが外出していたこと。もしもイクサに見られていたら、ディアの嘆きはこれで済まなかっただろう。
流水の輝尚石から、ぽたりと雫が落ちた。
広がる波紋の中でゆらぐ自分と目を合わせ、よしと気合を入れる。
近づくたびに強くなっていく泣き声。
いつからか腹立たしさがなりを潜めている。平静を装ったまま部屋に戻った。
寝床には掛け布を頭から被ったディアがいる。丸く小さい人影は、途切れることなく嘆きを発し続けていた。
床の上で、ヤクスが一人黙々と吐瀉物を片付けている。
桶を替え、必要なものを聞く。
「大丈夫だよ、ありがとうね」
掃除用の桶を眺めた彼は、わずか顔を曇らせた。表情がかげった理由は、掃除したにも関わらず大して汚れていない水のせいだと思った。
ディアが吐き戻したのは胃液。
内容物らしいものは見て取れなかった。桶の水は、彼女があまり食事をしていないことを正しく証言している。
悪いけどと前置きをして、ヤクスからいくつかの指示を受けた。
もちろん否やはない。乗りかかった船だ。こうなったらとことんまで付き合おう。
桶を片付けた後、診察鞄を手に取りヤクスのところまで運んでいく。長身の友人が当たり前のように持っていた鞄は、予想に反してかなりの重量があった。楽そうに掲げていたのは幻だったのか。
ひいふうと言いながら鞄を運び、取って返してきた足で薬湯を作る。
いつもと同じ分量という指示だった。量を慎重に確かめて薬湯を作り、ディアのところまで持っていく。
泣き声は続いていた。
でも、落ち着きは出てきたようで、ヤクスの問いに返事をしてきている。
掛け布を被ったまま進む問診。
荒れた声はいつしか、弱々しいかすれ声に変わっていく。しゃくり上げだけが嘆きを物語るようになった時、ヤクスが掛け布をはがした。掛け布の中から、熱病患者のように頬を染めたディアが顔を覗かせる。
「しばらくはオレが通いで来ることになった。不服だろうけど治るまでの辛抱だから」
ここにきて、ヤクスの声音が普段と違っていることに気づいた。
診察用か。
長身の友人も商売用の顔を持っていたらしい。男の人はまったくもって油断ならない。
「診察中はお嬢さん方の誰かを呼ぶことにするからね。必要なら服の着替えとかもお願いしておいてくれ。……他に心配なことはあるかな?」
「……ない」
「じゃあ、今日のところは薬湯を飲んでおいて。それから食事は一口でもいいからとること。毎日何を食べたか教えてもらおうか。嘘をついてもオレにはわかるからね」
そう。
ヤクスに嘘を吐くとすぐにばれる。カルデス商人ですら欺けないほどなのだ。
嘘を吐いたら後が怖い。医者を怒らせていいことはないので、ヤクスが席を外したら助言しておこう。
薬湯が苦くなるだけですよ、と。
「汗をかいたね。清拭した方がいい。身体が冷えると毒だからさ。手伝い、お願いしていい?」
「はい」
「じゃあ、よろしく」
汚れた水桶を手にしたヤクスは、そのまま部屋を出ていき……ひょこりと顔だけ戻ってきた。
「言い忘れたけど。二人も一時休戦だからね。わかった?」
苦い小言に首を竦めて、瞼を腫らしたディアと目を合わせる。生えていた棘は、涙と共に流れ落ちていったようだった。
ディアの瞳に嫌悪が浮いてはおらず、初めて顔を合わせたような気分を抱く。
「着替えを用意しますね」
伝えたら小さく頷き、汗ではりついた前髪を整えはじめた。
身なりを気にするのならばもう平気だろう。長身の友人の手腕を讃えつつ失礼しますと断り、棚から着替えと麻布を出してディアへと手渡す。
そうだ。
先ほど、薬湯を淹れた湯に残りがあった。清拭用にあれを薄めて持ってこよう。考えながら扉へ向かえば、思い描いた通りのぬるま湯が桶に入ってやってきた。
「はい。重いから気をつけて」
「ありがとう、ヤクスさん」
「どういたしましてー。……ん?」
帰ってきたかなと首を伸ばしたヤクスは、居間の扉へと視線を流した。数拍おいて気配が薄く届いてくる。
後方で、ディアの気配が盛大にかき乱れた。
寝床の上で固まっているディアに合図して、ヤクスが扉を閉める。
「おっかえりー。早かったな」
扉越しの声を聞き、桶の湯を零さぬように気をつけながらディアのところへと向かう。
「留守をありがとう。……ディアは目を覚ましたかい」
紅玉がうるみ、ゆれる。
心を乗せた気配が部屋に散った。
来て欲しい。
来ないで欲しい。
矛盾した本音が悲しげに満ちていく。
葡萄色の髪が、肉の薄い頬に張りついていた。指先で整えてやりながら「まかせておいて大丈夫です」と小声で伝える。
「さっき起きた。着替えをしている最中だから、いまは入れないかな。心配だろうけどちょっと待ってなって」
(ほら)
目配せをすれば、口を引き結んだまま、また小さく頷いた。
放っておいたらそのまま寝床に張りついてしまいそうだったので、ローブを脱ぐよう促す。
億劫そうに指を動かし始めたところで麻布を湯に浸し、固く絞る。
絞った麻布で首筋と背中を拭う。
「……さあ、綺麗になりましたよ。冷える前に着替えてください」
わざと明るめの声を出し、麻布をざぶざぶと洗う。ぎゅっと絞ってから顔を上げると、変なものでも見ているかのような紅玉と出会う。遠くから警戒している山の動物みたいだと思い、口の端が勝手に持ち上がった。
今日は、本当にありがとう。
一人で見送ったイクサの笑顔には、疲れと一緒に安堵が窺えた。
「大丈夫でしょうか」
「うーん、どっちが?」
的確に意味を把握した長身の友人が、診察鞄を手にのんびりと聞いてきた。
自分とヤクスの間にいる黒髪の相棒は、帰ってきてからむっつりと黙り込んでいる。触らぬ医者に触ってしまったのだろう。
詳しく聞くのが怖かったので、むっつりさせたままにしておいている。
「二人ともです」
最後に二人と同じ実習に入ったのは、夏よりも前。
夏の間中は色々とあり過ぎて、顔を合わせた記憶すら薄い。近頃は学舎で姿を見なかったから、二人の変化が急激なもののように感じている。
「心配だよね。だからさ、明日から一緒に行動しようって話になったんだ」
軽い口調で言ってきたから「そうですね」と返事をしかけ、大慌てで口を閉じた。
結果として目だけ大きく開いて、ひどい顔をしてしまった。何故わかったのかというと、丁度ヤクスの後方に鏡が掛けられていたからだ。
「一緒にって。イクサさんと」
「うん」
瞬時に固まってしまった首を、ぎりぎり動かしてローグを窺う。むっつりとしていた彼は、視線だけ動かして自分を見ている。
「……ディアも、ですか?」
「そうだよ。番を離すのはまずいでしょ。まあ、ディアちゃんはしばらく実習に入れないだろうけど。食事くらいなら一緒にとれるからね」
黒い視線が「どうする」と聞いてきているけれど、返事をする余裕は微塵もない。
結局、ヤクスの意向を覆すような言い訳も思いつかず、彼と並んでむっつりとするはめになった。
最後までにこにこ顔を貫いた大先生は、また明日と言って扉の向こうに消える。名札が音を立ててゆれているのを眺め。動きが静まったところで、二人並んで大きな溜息を吐く。