蒼天のかけら 第十一章 神籬の遺跡
最悪の再会
「――アナベル!!」
しびれっぱなしの真眼よりも先に、両目が回復する。まだ暗く感じる広場の光景は、霧が襲来する前とは一変していた。
翼を呼び続けるジョーイの姿は、強固な結界の中にある。副隊長殿が展開しているであろう結界は、ジョーイだけを守っていた。一人守られた博士殿は翼を呼びながら、ただもどかしそうに白を叩いている。
目を凝らし、アナベルの姿を探す。
博士殿の視線を追いかけ、炎豪の灯りから遠い場所で彼女の姿を見つける。フィオラの隣で捕縛されているアナベルは、青ざめながらも自身の足で立っていた。
彼女の姿を認め、冷たい大気を一気に吸った。喉から入ってきた冷気が肺の動きを固める。
予想だにしなかった光景が、基壇の上に広がっていた。
「セルゲイ、何をするんだ! 」
ジョーイの声が、基壇の上で薄ら笑いをしている男に向けられる。
何ということか。
どうしてこの男がここにいるのか。何故、一度は相棒と呼んだアナベルに狼藉を働いているのか。
一変してしまった光景の意味をつかみ損ね、混乱に拍車がかかる。
「落ち着きなさいな、博士様。ご協力いただければ何もしないわ」
妖艶に笑んだ女は、青ざめて強張っているアナベルの頬に触れた。
赤い爪が肌の上で不気味に映える。
「おお、こいつは僥倖だ。そちらから出向いてくれるとは、手間が省けた」
大隊長殿が言い、セルゲイが薄ら笑いを落として睨む。
その拍子にアナベルの首が絞められ、彼女の表情が苦しそうに歪んだ。
「動かないで頂戴。貴方達には用がないの」
「……お前にはなくとも、我々にはある」
副隊長殿が一歩前進しただけで、セルゲイがまた彼女の首を絞めた。
「セルゲイ、やめろ。アナベルを離せ!」
「……黙れ。里の狗め。使い道の少ないお前を、我らが使ってやるというのだ。光栄だろう」
どろりとした口調が、セルゲイの心根を表しているかのようだった。
船で感じていた違和感が、拭い取れないところまで進行している。目に病んだ光をたたえて。まるでいたぶることを愉しむかのように、後手にされている彼女の腕を捻り上げた。彼女から苦痛の訴えが出されても、緩めるつもりはなさそうだ。
「人質を取ったところで大儀はゆるがぬ。時として犠牲も出よう」
「あら、大丈夫かしら。そんなことを言って、博士様のご機嫌を損ねてしまわなくて?」
フィオラの唇が弧を描いた。
さらに一歩出た副隊長殿の動きが、そこで止まる。
「研究者って頑固なのよね。絶対に大儀じゃ動いてくれないもの。彼らの根底にあるのは知識に対する欲。自らの欲に誰よりも忠実な人達が、大儀のために翼を見捨てるかしら」
試すように言って、その右手に真円を描く。
毒の気配が、熱せられた焼きごてを作り出す。
「もう一度言うわ。動かないで頂戴」
「……動けば娘の顔を焼くと言いたいのか。その程度の脅しが何になる」
「癒しをかければ元に戻るって言いたいのかしら? そうね、元に戻るわ。ただし時間がかかるでしょうね。火傷の跡ってなかなか引かないから。こういう話は、貴方みたいな人に言ってもわからないでしょうけど。――頭のいい博士様ならおわかりよね?」
結界の中で、大きく気配がぶれた。
「ジョーイ殿、申し訳ないが厳命させていただく。……黙して何も語られるな」
「大隊長もおわかりでないのね。大儀なんて役に立たないわよ。物分りの悪い男達ばかりでがっかりだわ。……さあ、博士様。何も命を差し出せと言っているんじゃないの。貴方の知識をお借りしたいだけ」
焼きごてが、彼女との距離を少し縮めた。
アナベルの顔に涙が伝う。その涙を見せびらかすように、セルゲイが彼女の顔を上向きに押さえた。
「どこに"神具"が眠っているのかしら? それだけ教えていただけたら、翼はお返しするわ」
フィオラの誘惑が終わるか終わらないかという時に、激しい警告が鳴り響いた。
回廊からやってくる危機がある。
新たな敵の予感を、悲鳴代わりに吐き出した。
「きます!」
呼応したローグが、自分を抱いて壁の方に飛び退った。退避した直後、冷たい風が描き出され、真っ向から危機を迎え撃つ。
展開された二つの真術は、回廊と広場を繋いでいる場所で混ざり、盛大に爆発する。
爆発から飛び出した風の残滓が、喉に突き刺さる。息苦しさに咳き込んでいる中で、一度は消えた鳥肌が全身に広がった。
身体と真眼が、やってきた危機を拒絶している。
眠っていた恐怖を掘り起こされて、指先が勝手に震えはじめた。
「……やあねえ。二人してむきになって。その野暮ったい娘のどこがいいのかしら。理解に苦しむわ」
フィオラが言っている間にも、鳥肌が悪化していく。
回廊から危機の足音が聞こえる。かつり、かつりと近づいてきている危機の名前が、唐突に思い出される。
この獰猛な気配は、忘れたくても忘れられなかった。
「――おや、手こずっているようだと見にきてみれば、そうそうたる顔ぶれだねぇ」
舌なめずりをしているような声が、背中にひどい不快感を生む。
青銀の真導士から多量の真力が放出される。臨戦態勢となったバトの背中越しに、やってきた獣と目が合った。
「これは面白い……。素晴らしい巡り合わせだ」
獣が嗤い。歴戦の高士達の気配が、いやましに強く広がっていく。
最悪の再会だ。
行方を眩ましていた"淪落の魔導士"は、出口を塞ぐように足を止めた。
前門の虎、後門の狼とはこのことだろう。
人質を取られた上に、前後を挟まれてしまった。手詰まりの状況で打開策を求めてみるが、どこにもつかめそうな糸がない。
この状況でできることはわずか。せめてこれ以上悪化させないよう警戒するぐらいだ。
真眼を大きく開き、全神経を総動員して推移を注視する。
「博士様、早く答えていただけるかしら。答えていただけないなら貴方の翼を、その男に譲ってしまうわよ。……ご存知? 彼って少し猟奇的な趣味があるの」
このフィオラの発言に、ラーフハックが不快感を示した。
「猟奇的とは……。やめておくれ、無粋な言い方をされては気分がよくない。私の作品への侮辱だよ。まあ、せっかく娘を譲ってくれるというなら美しく飾ってあげよう。その場合は、ぜひとも無傷でお願いしたい。火傷があると血が映えないだろう?」
アナベルは立っているのが不思議と思えるような顔色のまま、がたがたと震えている。
震える彼女の視線が、結界の中の翼に向けられた。
番の視線が絡む。
翼の絆が、娘の瞳に変化を生んだ。
牢獄の中で、苦悩しているジョーイを見た彼女は、目を閉じて静かに息を整えた。
「――焼けばいいじゃない!! わたしは天水よ。自分の怪我なら自分で治すわっ。火傷の跡が残ったってかまわない!」
涙を流し。足を震わせながらの啖呵を受けたフィオラは、彼女に軽蔑の眼差しを向ける。
「ジョーイ、何もしゃべっちゃ駄目! セルゲイの思い通りになるなんて、絶対に嫌なんだからっ!!」
続く啖呵を、電撃の真術が止めた。
か細い悲鳴を上げて崩れ落ちたアナベル。覚悟を決めて抗った娘を、セルゲイが踏みつけて潰す。
拳で結界を叩き、ジョーイが彼女を呼び続けている。
歴戦の高士達はいまだ動かない。
彼らが動ける隙が、生まれていない。
感覚を取り戻した真眼が、彼と彼女の苦痛を拾う。
痛ましくて視ているのも耐え難い。けれども、真眼を開き続ける。
膠着は長く続かない。
それぞれに目的がある以上。そして世界に時の流れがある以上、必ず変化が生まれる。
次に変化が起きた時、きっとわずかなほころびが出る。
あちらが先か。こちらが先か。
先手を取るのはどちらなのか。そこが運命の分かれ道。
真導士なら誰にでも備わっている力がある。だから誰にでも先手を取る機会がある。
ここならば自分でも戦える。誰よりも臆病で、何よりも鋭敏な真眼を見開き、奇跡の世界でひたすらに探す。
変化は常に唐突だ。
見逃すまいとしていたけれど、残念なことにわずかな遅れを取った。
最初に気がついたのはセルゲイだ。
彼は変化に気づき、その意外な姿に慄いて奇声を上げた。奇声を出した男が、片足を上げて呆然と眺めているのは水晶の床。
恐ろしき美を成している床から、哀れな人質の姿が消されている。
「何!?」
副隊長殿の驚きが、変化に対応しきれていない広場を駆け抜けた。
驚きの正体を求めて視線を動かし、無人となっている牢獄の結界を見つける。
アナベルとジョーイの姿が、誰も気づかぬ間にかき消されてしまった。忽然と消えた二人の気配を探し、次なる変化を見つける。
「グレッグ!」
今度は副隊長殿までが消えた。いまのいままで結界を張っていたというのに。その結界ごと世界から失われてしまっている。
「何が……」
低い声が聞こえた。
とても鈍く。
こんなに近くにいるのに遠くで聞こえていて、これが予兆だと気づく。
失われていっている。
今度は、自分が。
前触れもなくやってきたほころびは、世界から自分を難なく切り離した。